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上一万〜道後温泉〜千秋寺(道後鉄道・松山電気軌道)

(クリックすると拡大します。なお、この航空写真は国土交通省のサイト「国土情報ウェブマッピングシステム(試作版)のご利用に当たっての注意事項」に基づき記載しております。)

道後鉄道は松山地方気象台の細い道をそのまま北上し、上一万から道後温泉へと続く現在の電車通りとは直角に突き抜ける。すると、今度はなだらかに道後温泉の方向へ向かって右カーブを描く。古地図に描かれている路線どおりなのであるが、電車通りから二百メートル少々北上したところで、行く手には駐車場が立ちはだかり、道が途切れる。道後温泉まであと六五〇メートルほどのところだ。

(1:現在残されている道路から推測できる道後鉄道跡はここまで。ここから後は想像するしかない。)

現在は道後温泉を出発すると、一度南東方向へと向かって、道後公園前から西へと向きを変えているのだが、当時は道後温泉からまっすぐ西方向へと向かっていたわけである。

さて、ここからが私の説である。道後温泉の留置線からまっすぐ西へ向かう細い道路があるが、この道が俳句の道、つまり県道松山北条線をわたったところに愛媛県身体障害者福祉センターがある。道後温泉の留置線からここまではかつては線路が敷かれていたことが容易に想像できる。で、この福祉センターの北側にある細い道は五〇メートルほど西へ行くとわずかに南へ弧を描いているのが判ると思う。

(3:県身体障害者福祉センター北側には、ゆるやかに弧を描く細い道路がある。この道路を南西方向へと延ばせば、2の斜め向いた家へと行き着くのである。)

この南へ弧を描くところと、先の道後温泉まであと六五〇メートルほどで途切れた駐車場とを、若干弧を描きながら結んで見ると線がつながることに気づくと思う。

多分、ここにかつての道後鉄道があったんだなあと思いながら、かずまると二人で歩いていくと、なんと面白いものを発見した。さきほどの結んだ線の上にかかるように、斜めに建てられた家があるのである。昭和四九年の航空写真を見てみると、なんとこの斜めの家がくっきりと見え、周りは一面の原っぱ(もしくは田んぼ?)なのである。多分伊予鉄道の廃線跡を売却したのだろうと思うのだが、個人の家でもあり、あんまり騒ぎ立てると申し訳ないから、これはこれ以上詮索しないことにする。

(2:上の写真で途切れた道路を北東方向へ伸ばしていくと、この斜め向いた家へと行き着く。昭和49年航空写真では、この家だけがあって、周りは田んぼだった。)

(4:この向こうに道後温泉駅留置線がある。道後鉄道はこのあたり古町へと向かう線路と複線になっていたようだが、南町あたりの勾配を避けるように敷設されていることも見逃せない。)

道後鉄道には、道後温泉から城北を経由して古町へと向かう路線もあり、こちらには、道後今市付近で道後鉄道跡とされる道路があることが判っている。この道は県道松山北条線の旧道(松山赤十字病院の東側から北上する道)へ向かって北西へと斜めに走る狭い道である。その東側は人家が密集していて、はっきりとは判らないにせよ、道後温泉からは一番町方面へと向かう路線と並行していたであろうから、大体の路線を推測することができる。

(5:画面右方向へ緩やかに曲がっていくのが、かつての道後鉄道で現在は細いながらも道路になっている。)

古地図によると、昔はこの松山北条線の旧道はなく、その少し西側にある細い道のほうがメインストリートだったらしく、そのあたりで宮前川を越える。この宮前川はこのあたりから下流域が二級河川である。道後温泉界隈では御手洗川という名称をみることがある。ということは、その上流である岩堰までは一級河川重信川水系石手川なのだからなかなかややこしい。宮前川に添う道は狭く、場所によっては平日車の通行を規制しているのだが、この道は東に向かえば道後温泉へ、西に向かえば萱町六丁目電停からさらに三津へと向かう主要街道だったのだろう。

道後鉄道は、この県道松山北条線の旧道とその西側にある道路の間で宮前川を渡る。このあたりの川は三方張りではなく、いわゆる石積みだから古いはずなのだが、考えてみれば、この路線が廃止されたのが昭和二年だから、すでに八十年近くが経っており、橋があったと思われる場所に建てられている家だって、路線廃止後に立てられたとしても、相当古い家ではある。そのくらいのつもりで、よーく川を見てみると、なんとなく斜めに構造物が見える。これが橋脚跡かどうかは判らないが、場所としてはそのあたりにあったとしてもおかしくはない。

(6:道後鉄道は県道松山北条線(旧道)あたりで宮前川を越えていた。廃線から70年経って当時の跡があるのかというと・・・宮前川の中に構造物発見!?宮前川越えの鉄橋跡かどうかは判らないものの、斜めに入った構造物の向きは、まさに道路鉄道路線の向きと同じである。)

宮前川を越えると、樋又通りへと向かうまでの間に、斜めに走る細い道がある。昭和四九年の航空写真でもそのその場所が道後今市から伸びる線路跡の延長線上と一致することがはっきりと判るのである。そして、その先に千秋寺前という停留所があったようだ。ただ、この駅は当初からあったのではなく、明治四四年に三津口と同時に作られた駅らしい。

(7:宮前川を越え、樋又通りと護国神社前通りまでの間にある斜めの通路、塀と斜めに建っている家。この斜めの塀はさきほどの道後鉄道跡の道路の延長上にある。)

ただ、それから先の線路跡はよく判らない。当時は樋又通りらしき道もないことから、ひょっとしたら道路にリリースされてしまっている可能性が高いような気がする。

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