鉄分ダ イエット〜14万1000キロカロリーの旅〜

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 【第2章】 早 歩きダイエット編

1 平成一九年一二月最終週(平成二〇年一月第一週)

 一二・二九(土)〜三一(月)

職場の年末年始休暇は一二月二九日から一月三日までである。
当然、正月は体重を一番気にしなければならない時期であるのだが、すでに二八日の段階でリバウンドが始まっている。
これはまずい。まずいのだが、今夜は、義兄が帰省してくるということで、夕方義父母宅で夕飯をとることになっている。

  

左:坊っちゃん列車、右:鉄道歴史パークin西条

 そのうえ、年末といえば、当然ながら大掃除が待っている。明日から大掃除が始まる。その合間を縫って行軍をする予定ではあるが、今までのような乗車を主 とした「鉄分ダイエット」では時間がない。だから、しばらくは、自宅近くへ舞台を移し、撮り「鉄分ダイエット」を企んだ。
幸い、自宅から西方向へ二キロも歩けば、予讃線三津浜駅がある。また、北方向へ二キロ歩けば、やはり予讃線に出会い、さらに二・五キロ北へ行けば伊予和気 駅へ行き着ける。だから、そっち方向へ列車の時刻に合わせて行軍をし、撮影をすればいいわけだ。しかも、途中久万川という川の河川敷を歩くことになる。こ れは環境も良い。
さて、この行軍の距離算出であるが、実は「ちずまる距離計測」というサイトを利用している。これは、移動した場所を道なりに測定してくれるというありがた いサイトである。その距離がはたして本当に正してのかどうかは、そのうち自分の経験でわかってくるだろう。

二九日はさっそく伊予和気方面へと歩いてみる。一〇キロを一時間二〇分程度の速度といえば、時速七・五キロとなる。一〇年ほど前、ランニングマシンで測っ たことがあるのだが、歩く速度としては時速七キロが限界である。むしろ、時速八キロで走るほうが楽なのである。これは、走る方が地面を反動をつけながら蹴 るからではなかろうかと考えている。当然蹴るわけだから、膝への負担は大きくなる。ちなみに、この速度でフルマラソンを移動すると、五時間四〇分弱でゴー ルできることになる。
つまり、この時速七・五キロというのは、あるときは歩き、あるときは軽くジョギングするという中途半端な運動なのだ。が、自分の膝の具合を考えると、それ しか方法はない。だから、あえて「歩く」と表記する。
で、伊予和気駅から太山寺の手前で折り返して、一三・五キロほど歩いてみる。
さて、夕方は義兄と暴飲暴食が待っている。そのため、妻子が義兄一家を迎えに空港へ行っている間、私は松山市内への行軍をしてきた。とはいえ、当然坊っ ちゃん列車にも乗るし、松山市役所から松山城をバックに坊っちゃん列車を撮影したり、このあたりはダイエットというよりは、完全に「鉄モード」である。
そこから、西衣山駅近くにある義父母宅まで歩き、まだ歩き足らないのか、夕飯までの間に、更に五キロほど歩いたのであった。
一方、体重はというと、一回目の行軍後に風呂へ入ったときの測定では七四・四キロ。しかも、夕方の暴飲暴食が待っている。が、とりあえず、この体重が正月 太りの基準となるであろう。

翌三〇日は一日大掃除。ただ、午後三時半頃から前日のコースを若干短縮した一一キロを歩いている。
が、前日の二七キロ弱の行軍がむなしいほどの結果であった。ただ、昨夜を考えると、七四・〇キロは文句を言ってはならないか。

翌三一日も一日中大掃除。この日も午前中ワックスが乾くまでの間とか適当に理由をつけて、九・五キロを歩いている。
そして、この日が大晦日。休日中ということもあり、夕飯に全てを費やすため、朝昼の食事を極端に抑えた成果もあって、本年最後の体重は七四・二キロであっ た。
さあ、明日から正月が始まる。

 一・一(火)〜三(木)

 我が家では、毎年元旦に今治の実家へ帰省し、翌日帰宅、さらに三日に義父母宅で義父母の家族が勢ぞろいすることになっている。
 というわけで、元旦になったので、とりあえず朝、伊予和気駅近くのまでの九・〇キロ歩き初めをしてきた。
 が、帰宅して、さあ今治へ行こうとしたところで、妻の調子が悪い。昨夜から調子が悪かったのだが、このままでは連れて行くわけにも行くまい。
 仕方なく、かずまると二人で帰省する。
 そして、元旦の夕方と翌日の午前中にかずまるを両親に見させて、私はしっかりと計二〇キロほど早歩きをしてきたのであった。
 元旦の夕方は時折雪の降る中であった。

 その中での出来事。
 元旦の夜、風呂から出てきた私は、実家の体重計に乗ってみた。体重計そのものの誤差や、体重計を置いた場所によっても誤差が生じることがあることは知っ ている。だから、私はあくまで、自宅の体重計での相対体重として計測しているのだ。
 で、一応体重計に乗ってみたところ、なんと七一キロしかない。
 うーん、これはいくらなんでもおかしい。
「この体重計、少し軽く計測されないか?昨日量ったら七四キロあったんだけど。」
 両親の顔色が青ざめたのはいうまでもない。

 翌日夕方帰宅すると、とりあえず、妻は少しは回復していた。
 仕方がないので、二日の夜はうどんにする。正月の胃袋には優しいはずだ。

 さて、問題の三日。今日で一応正月休みが終わる。が、今年は一日出勤したら、再び土日が控えている。休日が多いということは、トレーニングもできるわけ であるが、一方では正月太りの危険性もある。
 三日は午前中伊予和気駅近くまでの九・〇キロを歩いた後に一度風呂へ入って体重測定。記録は七四・二キロ。一応大晦日と同じ体重だ。ただ、今日はこれか ら義父母宅での昼食、夕食会が控えている。
 その二食の間に約八キロ歩いているのだが、翌日夜の体重は七四・二キロ。とりあえず、ここまではなんとか現状維持を続けたと思って良いだろう。
 もっとも、一日置いて、次の週末が気になるのだが。

 2 平成二〇年一月第二週

 新しい年の仕事が始まった。再び、宇和島までの通勤が始まった。
 が、今年は一日出勤したら、再び土日がやってくるのであった。
 一月五日(土)は義兄一家と道後村めぐりをして過ごすことが決まっている。
当然、坊っちゃん列車にも乗った。夜は懇親会もやった。体重は七四・八キロと微増ではあるが、危険水域までやってきた。

翌六日は義兄が帰る日となった。午後から妻子が松山空港へ見送りに行っている。
そこで、いつもの九・五キロコースを二回観光、いや敢行した。
結果は七四・四キロ。年末最後の出勤日が七三・八キロだったから、この微増をどう思うべきだろうか。
ともかく、正月気分は終わった。再びダイエットに励もう。

 3 平成二〇年一月第三週

 昨年末あたりから、行軍のコースに変化が見られるようになった。
 というのは、それ以前は、JR松山駅から列車に乗って、適当な駅で下車し、そこから別の駅まで歩く、というのがスタイルであった。
 それが、昨年末あたりから、自宅を出発して、伊予和気駅方面へと歩く、あるいは早歩きをする機会が増えてきた。
 ただし、決して「鉄分」を忘れたわけではない。列車というよりも松山以東であれば、電車となるのだろうが、8000系特急電車が通過する時刻にあわせて の出撃が増えつつある。
 つまり、それまでの「列車に乗ってついでに歩く」から「列車を眺めながら歩く」というスタイルに変わりつつあるのだ。
 それが証拠に、成人の日を含むこの三連休、一月一二日(土)は雨の中を和気方面七・五キロ、一三日(日)と一四日(月)は伊予和気駅往復の九・五キロを 二回、つまり二日で三八キロ歩いている。
 一方の体重は、一三日の七三・二キロが最低体重であった。正月のリバウンドはとりあえず回避した。が、なかなか減りそうで減らない。
 まあ、このあたりは仕方ないだろう。九・五キロに一時間二〇分かけるとなると、時速六・七キロ。一度ランニングマシンで確認したことがあるが、徒歩とし ては、時速七・ニキロが限界である。ただ、この冬場に、そのような速度で歩いてもほとんど汗をかかないから、減量しようとしても、どだい無理!ということ でもある。
 ここは、わたしゃ、すでに一〇キロ以上ダイエットしたんだぞ!という心の支えだけを頼りに、ただひたすら我慢するしかないのだろう。
 というわけで、三連休最終日である一月一四日の体重は七三・六キロ。本当に頭打ち状態となってしまった。

 4 平成二〇年一月第四週

 平成一八年に宇和島転勤になって以来、その秋頃から、松山〜宇和島間を徒歩で歩いてきた。さらに、その企画は私一人が行軍する単独編とかずまるとの同行 編を同時進行してきた。
 単独編は、昨年四月にはすでに終了しているのであるが、同行編は昨年一一月二三日に卯之町〜立間間という最大の難所である法華津峠を越え、いよいよ最終 回を待つだけとなってきた。
 そして、そのときがやってきたのであった。
 一月一九日(土)最終回ということもあり、親子三人で卯之町まで特急でやってきた。さらに普通列車に乗り継いで、前回の執着、もとい終着である立間駅へ 降り立った。
 そこから宇和島までの距離は一二・二キロ。単独編ならばたいした距離ではないが、かずまるにとっては、最後にして最長不倒距離になったわけである。
 一方で、すでに徒歩では減量が限界にきている私にとっても、かずまる同行では減量なぞ期待できるずもない。
 ただ、当の行軍は、通行している車で「危」マークを探したり、いわゆる警備保障されている家や事業所のステッカーを探したりして、かずまるの気を紛らわ せ、なんとか宇和島市内へと向かう。
 かずまるも最長不倒距離の中ではまずまずがんばったとは思うのだが、やはり最後の通過駅である北宇和島あたりでは限界に来ていたのであろう。近くにある 電器店に入ったら、しばらく動こうとはしなかった。それでも、予定していた午後四時には、無事宇和島駅へ到着した。

 これから、同行編最終回を記念して、宇和島市内で一番とも言われるG料亭で鯛めしを食べにおこうと思う。開店は午後四時半。そこで一時間ほど居座って、 再び宇和島駅へと戻ってきたら、なんてことはない。普段の通勤と同じ特急宇和海22号で帰ったのであった。
 そんなことをしたりしたものだから、実際減量になるはずもない。

 ちなみに、この鯛めしであるが、愛媛県の場合、東中予(愛媛県東部から中央部)で鯛めしといえば、煮込みを意味する。しかし、南予(愛媛県南部)では卵 にまぶした、いわゆるぶっかけ飯をいう。
 これはなかなかカルチュアショックを受けたものだ。しかし、これは一度は宇和島へ来なさい、というべき逸品でもある。
 が、減量中の私には現実の一品でもあったようで、この日の体重は七三・四キロ、さらに、翌日はいったい何をしたのかと思うほどの七四・二キロであった。

 5 平成二〇年一月第五週

 順調に減ってきていた体重も、ここへきて完全にこう着状態となっている。
 昨年歩きまわった「駅トレ」であるが、ここは新たな企画がないものか、と考えていたところ、企画まではいかないが、あと宇和島から予土線務田まで歩け ば、宇和島〜松山間のへんろ道がつながることに気づいた。
 実際には、上宇和〜卯之町間と内子〜伊予大洲間がごっそり抜けてはいるのだが、この区間は松山〜宇和島間100キロ貫歩で逆向きとはいえ歩いてはいる。
 というわけで、さっそく、一月二五日(金)に三時間の休暇をとって、歩いてみることにした。
 あと、この区間を歩くことにしたのには、もうひとつ訳がある。
 この予土線であるが、務田手前にある窓トンネル、実は付け替えられているという。旧トンネルの務田側は既に埋められていて判らないが、宇和島側は跡が 残っているらしい。
 それをぜひ見に行こう。
 というわけで、午後二時半頃に宇和島を後にする。
 かつて、松山〜宇和島間100キロ貫歩時代は、上り勾配を避けたものであるが、今となってはむしろ上りの負荷がなければ、単に歩いただけでは体重は減っ てくれない。
 いずれは、これがジョギングになるのだろうが、ひざに爆弾をかかえている自分にとっては、走ることへの不安がぬぐい切れない。

 この予土線は、宇和島の次の北宇和島から分岐する。もっとも、実際には予土線、古くは宇和島線、いやその前の時代になると、予讃線よりも先に開通してい るわけである。
 が、この予土線は、次の務田で分水嶺を越え、あとは四万十川水系となるわけである。
 だから、当然ながら、勾配はきつい。実にトレーニングになる。今となっては、「たった」一〇・八キロの行軍なのだが、この上り坂による負荷は減量に役 立ったらしく、というより単に平日我慢した金曜日ということもあり、体重は七一・八キロと最低記録を達成したのであった。
 ちなみに、宇和島から伊予宮野下駅まで歩いた私は、その後、務田駅まで戻って4845Dから特急宇和海20号へと絶妙の乗り継ぎで帰宅したのであった。

 6 平成二〇年二月第一週

 この「ゴーイングマイウェイ」である減量日記も、当初の細やかなトレーニングの内容から、だんだんと大雑把になってきた。
 これは、なぜかというと、理由がある。
 昨年末あたりから、それまでの「松山から適当な駅(といっても快てーきを持っている松山〜宇和島間)まで出かけて、そこから適当に歩いて、目的地から JRで帰ってくる」というパターンに変化が出てきたのである。
 それはどういうことかというと、自宅から伊予和気駅付近を周回する約九・五キロのコースを歩くことが多くなったのである。
 その理由は単純明快だ。要するに、自宅からJR松山駅まで往復するために要する時間を考えると、伊予和気駅への周回コースの方が手っ取り早いのである。
 また、松山というより、伊予市以南が非電化ということで、今まではほとんど気動車ばかりを追いかけていたわけだが、伊予和気駅〜三津浜間を歩けば、電車 という今の私にとっては新線、いや新鮮な車両を見ることができるということもあったのだろう。
 だから、当時の記録を見ていると、伊予和気方面行軍二回、つまり二周したりする日もあるのだ。
 しかも、このコースを歩き始めた昨年末には、九・五キロを一時間二〇分かかっていたのが、最近になって一〇分近く短縮されてきた。
 多分、体重が減ってきたことで、体が軽くなり、自然と早歩きに近い速度で移動するようになったのだろう。だから、当時の自分のブログを見ても、歩きより は早いが、走ってはないということで、あえて「移動」とか「早歩き」という言葉を使っていた。
 が、手っ取り早いとはいえ、毎週この伊予和気駅周回コースを移動していると飽きるのは時間の問題である。もっとも、二月一日(金)現在の体重は七一・二 キロと再び下降線を描き始めたのだから、文句を言ってはならない。

 7 平成二〇年二月第二週

 そのマンネリ化しつつある生活の中で、唯一変化のあったのが、翌週である。
 言うまでもなく、建国記念日のある三連休である。
 変化があるといっても、それは我々の日常生活に変化があったわけあり、ダイエットに変化があったわけではない。
 つまり、どういうことかというと、親子三人で、西条市に出かけてきたのである。
 目的地は、「アサヒビール園」、そして、ついでといっては何なのだが、「鉄道歴史パークin西条」に寄ってきた。
 「鉄道歴史パークin西条」であるが、これは元国鉄総裁であった十河氏が西条出身ということで、小さいながらも鉄道のテーマパークを作ったものである。 個人的には、一度行ったら二度はない、と思うのだが、同館としては結構リピーターがいるらしい。
 もっとも、今回のメインはあくまで「アサヒビール園」である。ただ、言うまでもなく、こんなところは
 減量の敵!
であるので、午前中に伊予和気駅周回コースの行軍をしている。って、全然変化してないではないか!とも思うが、それは突っ込まないでいただきたい。
 この「アサヒビール園」は、工場見学をした後に(大人はビールを)試飲して、その後、ジンギスカンとビールでの夕食が待っている、というわけである。

 この「ジンギスカンとビール」といえば、二五年の昔、大学卒業時の北海道旅行で、同行していた友人と「サッポロビール園」へ行ったことを思い出す。
 時に昭和六〇年三月上旬、北海道札幌市は氷点下の世界。
 その中で、
 これほど美味しいビールがあったんだ!
と感激したものである。

 今回もその感激に浸ろうとしたことは言うまでもない。
 が、実際には、確かに美味いが・・・
 それほどの感激はなかった。

 これは、二五年の時を経て、我々が日常飲むビールの質が格段に向上したからではないだろうか。これは、別の意味で感動ものである。日本の技術革新に敬服 せざる得ない。大変な時代だと思う。このような世界の中で、これからかずまるは生きていかなければならないのだ。

 とまあ、それは減量の話とは関係ないので、それ以上の話はしない。
 ただ、かずまるは、その試飲会でジュースを二杯も飲んだものだから、その後の夕食会(ジンギスカンなのだが、追加料金を払えば牛肉に変更可能、我々は半 々で注文)では、最初一時間妻子が付近で散歩をしていた。
 だから、夕食会は二時間飲み食い放題だが、かずまるが二時間も食えるか!と思っていたのは杞憂に終わり、二時間きっかりと飲食できたのであった。
 本来の意味とは違うが・・・

 なお、その帰りに、列車を待つまでの間、「鉄道歴史パークin西条」に寄ってきたのであった。
 
 8 平成二〇年二月第三週

 現在かずまるは小学四年生である。私は愛媛県今治市出身だが、現在松山市に住んでいる。だから、松山市の教育事情には詳しくない。つまり、家を建てた場 所からかずまるの小学校までは一・二キロ程度なのだが、中学校までは三・七キロある。しかも、この校区がものすごくいびつであり、本来かずまるが行くべき 中学校よりも近い公立中学校が四つもあるのだ。さらに、ご丁寧にも県立中等教育学校が小学校よりも近い場所にある。
 そんな環境だったから、かずまるの教育については、かなり早い時期から中学受験という言葉が現実論として存在していた。
 ということで、かずまるが塾へ通うことになった。
 そこで、今となっては、私の伝説的な言葉が発せられたのである。

 お父さんの時代には、土曜日に半日登校していた。だから、お前もせめて土曜日は塾で勉強しろ。その代わり、お父さんもお前が勉強している時間帯に走っ て、一緒に苦しむから。

 さあ、ついに「走る」という言葉が出てしまった。とはいえ、一〇キロを七〇分、一五キロを一一〇分かかるのは相変わらずである。しかし、体重が一〇キロ 以上減り、早歩きをしていて、体が自然に浮き上がるような錯覚に陥り、ペースが上がろうとするのは事実である。
 というわけで、自分の体が次なる段階へと移動を始めているということで、次の章へと移ることにする。
(2011.12.30)

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