鉄分ダ イエット〜14万1000キロカロリーの旅〜

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 【第3章】 ジョギング編

 1 平成二〇年二月第四週〜三月

 念のために申し上げると、私としては走っているつもりなのだが、一五キロを約一時間五〇分かかるようでは、これは走っているとはいえない。だが、一応私 はかずまるに「走る」と宣言してしまった以上、とりあえずこれからは「ジョギング」という言葉を使わせていただくことにする。
 土曜日の朝、かずまるを塾へ連れて行き、その間松山市駅のトイレで着替えて、石手川へ出て、市坪の公園までの往復約一五キロをジョギングすることになった。そして、石手川公園のトイレで再び着替え、少々休んで、かずまるを迎えに行くというパターンができた。
 だから、当時の記録を見ると、「石手川公園〜市坪・一五キロ早歩・一一〇分(前後)」という表示がずらりと並んでいる。不思議なことに、日曜日にもこの表記がある。前述では、かずまるの塾通いは土曜日だけだったはずなのだが、日曜日にも出かけていたのかもしれない。

  

左:北伊予駅、右:四国一周・自転車特攻隊・室戸岬

 一方の体重であるが、西条行軍後は七一キロ〜七二キロで完全に落ち着いている。
 それが、二月最終日、ついに初めての六九キロ台に突入する。
 これは、妻の親戚に不幸ごとがあり、仕事を早退して会場へと駆けつけ、途中でかずまるを連れて帰ったときのことである。多分、バタバタしていて帰宅後、空腹の状態で体重計に乗ったのであろう。記録六九・八キロ。
 ついに夢の六〇キロ台へと突入した。しかし、それは本当に夢でしかなく、それ以降再び六九キロ台を記録するのは、実に一ヶ月後だったし、それ以降も週末の運動直後に六九キロ台を記録するだけで、実際にはまだ七〇キロというのが現実であったのだ。

 2 平成二〇年四月〜五月

 例の石手川行軍であるが、四月になると、変化が見られてくる。
 というのは、一五キロ行軍から一〇キロ行軍へと縮小されているのである。これは、行軍そのものが縮小されたのではなく、ジョギングする距離が縮小されたものだ。
 元々、私の石手川行軍は、かずまるが塾へ行っている間に走っているものだから、早く走ろうと、遅く走ろうと、結局のところ行軍時間は同じである。だか ら、一五キロ走って、あと石手川公園でごろごろするよりも、最初の五キロをウォーキングして、次の一〇キロをジョギングする方法に変えたのである。
 とはいえ、一〇キロの記録はだいたい六五分。体重も相変わらず、七〇キロ台が続く。

 そういえば、最近かずまるの塾に付き合うだけの週末だから、行軍では松山市内から出たことがない。
 そんな中、二度ばかり遠征に出かける機会があった。
 一回目は、四月一三日(日)これは、かずまるが恒例の竹の子堀に出かけたことから、八幡浜〜卯之町間約一五キロを歩いてきた。
 八幡浜駅には駅構内に津波の標識がある。つまり、市内が津波にさらされた場合、ここまで津波がやってくる可能性がありますよ、というものである。同様の 標識は宇和島駅にもある。つまり、ほぼゼロメートルと考えてよい。それに対して、卯之町絵は標高約二〇〇メートルにある。途中の笠置トンネルで二四〇メー トルまで上り、その後は下る。
 例によって、特急いしづち1号で八幡浜に8時57分に到着する。
 今日は、ここから卯之町駅をめざし、卯之町駅を一二時過ぎに出発する特急宇和海12号で帰る予定となっている。
 だが、最近の私は、自分でも気づかないうちに体力がついていたのだ。
 八幡浜駅から営業キロ四・七キロで標高約一〇〇メートルの双岩駅を約四五分で通過し、笠置トンネルを抜けたところで一〇時一五分。ちょうど往路八幡浜まで乗車した特急列車が再び松山をめざして走っているのが見える。
 そこで、私の中にある計画が思いついたのだ。
 ここから卯之町駅まで約五キロ。予定の一本前になる特急宇和海10号の卯之町駅発は11時04分。楽ではないが、なんとか間に合わないだろうか。
 そうと思い立ったら、それまでのウォーキングからジョギングへと切り替える。
 伊予石城駅近くでは、四月二九日のれんげ祭りの準備が進められていたが、もはや私には「アウトオブ眼中」ただ、ひたすら卯之町駅をめざす。
 伊予石城〜卯之町間はJRで五・〇キロ、道路では五・三キロを予定している。時間はあと四四分、ここまで走行距離一〇キロ近く、標高差二四〇メートルを登ってきた状態で、果たして、残り五キロを三五分で行けるのか?というより、走れるのか?
 上宇和駅を一〇時四三分に通過。卯之町駅まではJRで二・〇キロだが、道路でもそんなに差はないはず。あと二キロを二一分。これなら間に合うかも、と思い始めた。
 そこからは国道五六号をひたすら走る。
 宇和中学南側の信号であと八〇〇メートルという予定表だけの記憶がある。ここで八分以上時間があれば、時速六キロで間に合うという確信が持てるとだけ、記憶が残る。
 その信号を過ぎたとき、もはや予定表を見る余裕もなく、時計もあと八分以上ということしか確認せず、ともかくあと八〇〇メートルを全力疾走で走り抜ける。
 結局のところ、トイレに飛び込み、着替えをして、さらに売店での買い物をする余裕もあったのであった。

 もう一回は、五月二六日(月)。この日は前日の休日出勤の代休だった。
 前回同様、八幡浜まで特急いしづち1号、さらに三瓶蔵貫までバスに乗る。
 この三瓶蔵貫のバス停は、いわゆる海岸にある。つまり、今日卯之町駅へ行くためには、約四五〇メートル上って、約二五〇メートル下る。卯之町駅のある西 予市宇和町は、標高約二〇〇メートルに位置する高原の盆地であるが、その盆地の縁は、西予市の旧明浜町や三瓶町では、海岸線にまで迫っている。だから、今 日私が上っていく山を個人的に「宇和外輪山」と呼んでいる。
 さて、この宇和外輪山であるが、宇和から明浜へ向かう場合、昭和六〇年頃に元林道を改良したほとんど一車線の道路があった。今では県道になっているこの 道は、宇和外輪山を越えると、宇和海の圧倒的風景を拝むことができる。が、実際には当時の明浜町へ降りていくには、相当の時間を必要とした。で、その途中 に仁土という集落があるのだが、その集落は先述の道路から明浜川ではなく、三瓶蔵貫方面へまさに崖の下のような場所に張り付いているかのようにある。
 今は、仁土も蔵貫も西予市になってしまったのだが、今日はその仁土の集落を通り、宇和外輪山へと上っていくことになっている。
 いわゆるジョギングではなくて、ウォーキングをするならば、このくらいの高低差を上っていかなければ、もはや体重が減ってくれない。
 なのだが、途中の上りでは、その坂を走って上っていく人をみかけたぞ。
 結局のところ、宇和外輪山をなんなく登りきり、この日も一便早い特急しおかぜ22号で帰ることになったのであった。

 一方の体重であるが、五月も下旬になってくると、ほぼ六九キロ台を維持してくるようになる。五月三〇日には六八・四キロにまで下がってきた。
 これは、多分暑くなってきて、発汗によるものではないだろうか。

 3 平成二〇年六月

 かずまるの土曜日の塾は、午前九時に始まる。場所は松山市駅から南堀端へと向かう途中。
かずまるを送っていく場合、伊予鉄道郊外電車の都合で、八時四七分に松山駅へ到着する。つまり、かずまるが塾へ入るのはだいたい八時五〇分頃。
 一方、JR松山駅前ロータリーから伊予銀行本店前交差点までは、一・一キロある。つまり、南堀端から走れば、松山駅9時01分発特急宇和海3号になんとか間に合う。間に合わなければ、その数分後に宇和島行きの普通列車がある。
 昨年一二月下旬の三連休に、先発の特急列車内で腹筋運動をしたが、まだ時間があったので、そのまま下車して、次の普通列車に乗ったという、あの組み合わせだ。
 私の「お父さんも走る」場所が、この頃を境に石手川公園〜市坪往復から、伊予市〜市坪〜松山約一六キロへと移っていった。

 とはいえ、八時五〇分頃南堀端にいた者が松山駅9時01分発特急宇和海3号に乗ることは容易ではない。
 まず、基本的にずっと走らなければまず間に合わない。しかも、この間に国道五六号の交差点がある。時間的にはちょうどこのあたりで始発の坊っちゃん列車が通過するのだが、坊っちゃん列車に集中するわけにはいかない。
 そうして、なんとかやってきた松山駅。幸い私は快てーきを持っているから、切符を買う必要はない。しかし、特急列車の出発する場所は、一番ホーム宇和島側遥か彼方だ。ホームになだれ込んだ段階で、たいてい発車ベルが鳴っている。
 列車に飛び乗れば、もう汗だくだく。汗はどうせこの先もう一度かくから気にならないが、列車のエアコンが少々寒い。
 それでも、列車に乗っている時間はわずか七分。九時一五分には走る準備を整えて、再び松山をめざして走り始める。
 そのコースは、当然ながら今列車で乗ってきた線路沿いの道である。もちろん、列車の写真を撮影するのが第二の目標なのだ。
 そうして、鳥ノ木〜伊予横田〜北伊予とジョギングし、市坪からは今までどおり石手川公園を通って、松山市駅へと戻ってくる。

 重信川の南側には堤の中に自転車道がある。実際に県道に指定されており、歩行者と自転車の専用道路になっている。
 実際に行って、その道をみればよく判るのだが、実にたくさんの人が走っている。また、時期によっては、トライアスロンの練習のごとく自転車を連ねて走る方々もいる。
 そま中には、職場の遊走会の方々もいる。遊走会の会員で、かつての職場の先輩がこの近くに住んでおられることもあり、まさにこの場所が「道場」として、私の知り合いの姿を見ることもある。
 だから、毎週のようにここジョギングしていると、彼らに会うこともあるのだ。その日は、ちょうどその先輩と、その方とは別の職場で一緒だった後輩を見かけた。
 その中で、後輩が、
「あなたも歩いているんですか?」
と話しかけてきたとき、前述の先輩が、
「何を言ってるんだ。彼は走っているんだぞ。」
などと言われたこともある。
 どちらにしても、ほめ言葉にはなっていないが、彼らは当時の愛媛マラソン(制限時間三時間四〇分)を楽々走りきることができる方々なのだから、レベルが違うということで、ここは我慢しなければならない。
 ただ、体重の話題になると、七月には既に六六・〇キロを達成。つまり、最大で一八キロ減となったわけである。
 つまり、もうこの時点で、私のダイエットは終了し、単なる維持の世界へと突入していた。
 というのも、走れば、ビールが旨い。だが、暴飲暴食をすれば、当然体重が増加する。だから、走って体重を下げる。
 という悪循環の繰り返しが始まったのである。

 4 平成二〇年秋

 だんだんと表題が大雑把になってきた。
 というのも、かつて、松山駅から宇和島方面へ列車に乗り、適当な駅で下車し、適当な場所まで歩いて、たどり着いた駅から松山へ戻る、という「駅からトレッキング」は過去の世界。
 当時の記録を見ても、同じような行軍がずらりと続くようになったのだ。
 しかも、今年の六月頃から「伊予市〜市坪〜松山」行軍が始まったものの、夏なると、これが「鳥ノ木〜市坪〜松山」に縮小される。
 これは、どういうことかというと、要するに暑くて、南堀端からJR松山駅まで一〇分で移動できなくなったから、次の普通列車に乗っていただけのことである。
 まあ、確かに、真夏だったら、南堀端からJR松山駅までの約一キロを歩いただけで汗だくになるのに、これを走っては移動できないだろう。
 だから、だんだんと涼しくなってきた九月下旬になってくると、再び「伊予市〜市坪〜松山」行軍が復活してきた。

 そういえば、ある日。同じように伊予市から松山へとジョギングしていたときのことであった。
 いつものように、重信川南岸へと出たところで、な、なんと、河川管理道いっぱいに人が走っている。多分何かの大会なのだろう。
 とはいえ、仕方ないから、彼らと一緒にであい自転車道を渡って北岸へ出る。そこから市坪駅へ向かうために右折しようとすると、
「コースは左折ですよ。」
と、誘導員らしき人に制される。
「いえ、私は部外者ですので。」
 あとで調べると、その大会は「坊っちゃん一緒にらんランRUN」であった。
 マラソン大会といえば、どうしてもエリート集団というイメージがあるのだが、一般市民が普通に走るこんな大会もあるんだ。

 5 平成二〇年冬

 そんなワンパターンの生活の中、ふとしたことから、自転車による運動が始まる。
 そもそもは、この鉄分ダイエットの最初頃、かずまると松山から宇和島まで数回に分けて歩きとおしたことに端を発する。
 そのときの記録をまとめて、かずまるの夏休みの自由研究として提出したところ、学校を出て行って、松山市で表彰された。
 そのときの先生が、
「あと二年やるから、四国一周してこい。」
とおっしゃられたのだそうだ。

 この四国一周という言葉は、その先生がどういう意図をされていたかどうかは判らないが、私には、「自転車で四国一周をしてこい」という響きを受けた。 

 実は、まだかずまるが生まれる前の平成七年夏、時は阪神淡路大震災の半年後、震災にあった小学生の兄弟が自転車で日本一周をし、その途中で松山市へ立ち寄ったというニュースがあった。
 そのとき、私は、生まれた子供には、小学か中学時代に、せめて四国一周をさせたいと思っていたものだ。かずまるは、生まれたときから、そういう宿命を背負っていたことになる。
 
 つまり、かねてから計画していたものの、なかなか始めの一歩のタイミングがつかめないとき、その先生が私の背中を押してしまった、ということになるのだろう。
 
 さあ、役者はそろった。
 だが、自転車で四国一周は、どうすれば可能なのだろう。
 四国一周を一気にすることは不可能だろう。当然、何回かに分けて行軍をするのだろう。
 だが、自転車はどうして移動させよう。
 最初は、マジで、宅配を考えた。だが、宅配にかかる費用は下手をすれば、自転車が買えるくらいの金額になる。
 いろいろ考えた結果、結局のところ、私は二〇インチの折りたたみ自転車で輪行させる。一方のかずまるは考えた挙句「縦横高さの合計が二五〇センチ内に収まるスポーツ用具」としての位置づけになることが判った。
 私は輪行バッグを購入すればよいが、かずまるの場合は自転車を包むのに一苦労がかかる。

 そういう中で、一二月になると、いわゆる自転車特攻隊の事前トレーニングということで、二〇インチ折りたたみ自転車での単独行軍が始まった。
 一二月一二日は、朝一〇キロ走った後、今治まで四三キロを折りたたみ自転車で移動している。あと一・五キロ泳いだらトライアスロンじゃないか。ただ、こ の日、実は実母が今治市内の病院で手術をしており、松山から私が先行して自転車で駆けつけ、妻子が後から自家用車でやってきたという経緯がある。
 一二月一九日には、実際に松山から伊予中山駅まで特急いしづち1号に輪行させ、中山〜大洲〜長浜〜松山まで七七キロを走らせている。
 この折りたたみ自転車であるが、車輪が小さいために、特に下りではペダルの回転に足がついていけない。これは慣れるまでは結構危ないものがある。第一、荷物はどうするのだろう。
 
 そして、ついに、四国一周・自転車特攻隊が始まった。
 一二月二八日に、かずまると二人で窪川駅から江川崎駅まで五四・〇キロ、翌々日には、宇和島駅から江川崎駅までの三七・一キロ、さらに、翌年二月一日に は窪川駅から須崎駅までの三四・五キロ、三月二一日には須崎駅から土佐くろしお鉄道あかおか駅までの五六・〇キロの行軍をしている。
 ちなみに、この経路であるが、時間の都合上、松山〜宇和島は徒歩で走破したということで無視する。それで、宇和島を出発することになったのだが、普通に 考えて思いつく足摺岬も、その距離や宇和島〜宿毛間の想像以上のアップダウンを回避し、宇和島からはJR予土線沿線を走るという手抜きをしたわけである。 そうして、高知〜徳島〜高松へと走る。そして、一周した後に余裕があれば、江川崎をスタート地点として、足摺岬までをオプショナルツアーとして組み込むこ とにした。多分、足摺岬にこだわっていたら、たどり着いていなかったろう。

 一方で、ジョギングそのものは、あいかわらず、伊予市から松山まで走ったり、伊予和気駅付近まで走ったりする日々が続き、体重は冬場大体六八キロ程度を維持していたのである。
 昼休みも、雨が降っていなければ、裏山を登っていく。雨が降っていれば、七階建ての職場の階段を上下する。
 昼休みに走っていると、いろいろな人から声をかけられる。
「もうすぐ愛媛マラソンがありますからね。」
と答えることにしていた。
「えっ、出られるのですか。」
たいていの人はびっくりする。
「いいえ、出ません。」 

 そういえば、職場では火曜日に「火曜日は階段の日です。みなさん、エレベータでなく、できるだけ階段を使いましょう。」という放送が流れる。ところが、その年は、なぜか火曜日に雨の降ることが多いのだ。だから、火曜日の昼休みは、階段を上ったり下ったりする。
 とはいえ、
 パタパタパタ!!!!!
 昼休みとはいえ、運動靴を履いていても、かなりやかましいらしい。
 そのうち、火曜日に件の放送が流れなくなったことは言うまでもない。
(2012.01.07)

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