1 平成二一年春・松山への転勤
左:松山市内の坊っちゃん列車、右:愛媛マラソン新コース(前方は北条鹿島) そういえば、私は坊っちゃん列車に三五〇回程度乗車しているのだが、ちょうど二年前の四月にインフルエンザを発症し、毎週坊っちゃん列車に乗るという記録が途絶えて以来、緊張の糸が切れたかのように、坊っちゃん列車乗車が激減してしまった。一方で、かずまるも幼稚園時代には、無料乗車の小皇帝として君臨したものだが、最近の塾通いで、これまた激減してしまった。 だが、これで、再び坊っちゃん列車を見ることができるようになった。 これぞ、鉄分ダイエットの真髄であろう。 一方で、もうひとつの転機があった。 それは、新しい職場の上司が、職場遊走会の会長だったのである。 この方は、元々高校時代は八百メートル走の全国大会常連だったらしく、三年生のインターハイで、一年生で最初から百メートル走のごとく飛ばす人がいるなあ、と思っていたら、それが瀬古選手だったそうだ。 さて、この頃の速力はというと、八キロくらいならば、一キロ五分強なのだが、一○キロを超えると、とたんにペースが落ちている。 この頃の松山市内走行というのは、多分一直線に走るのではなくて、坊っちゃん列車を追いかけてみたり、俳句の里巡りを兼ねて句碑ごとに撮影してみたりしているから、多分遅いのだろうとは思うが、それにしても、速力という面ではあまり進歩はしていないものだ。 ただ、体重ということになると、夏場はやはり体重が落ちるらしく、記録としては六五・二キロまで落とした。これは、実に一九キロの減量に成功したことになる。 2 平成二一年夏〜初めての大会出場へ 多分、その遊走会長に出会わなければ、減量の延長線上にあった「走る」という意味では、それ以上踏み込むことはなかっだろうと思う。 当時の職場は、組織である課の別室であって、そのいわゆる室長の職に遊走会長がおられた。 ある日の昼休み、課長から「坊っちゃんらんランRUNの申込書が数枚あるので、希望者は取りに来ること。」という話があった。 昨年一一月、重信川の南岸で出会った市民ランナーの集団、あの大会だ。 当然ながら、間髪を入れず、課長の元へ直行。 この課長は、私が新人だったときから、別の事務所で同じ仕事をしていたこともあり、顔見知りである。で、申込書を私に渡しながら、 「あの坊っちゃんマラソンはね、ハーフを走ると判るけど、折り返してしばらくすると、もう坊っちゃんスタジアムが見えるんだよ。そこからが遠くてね。」 「そうそう、イチワリマラソンといって、四・二一九五キロのコースもあるんだけど、これに走ると、小学生のガキが最初からぶっ飛ばすのがしゃくにさわってね。」 とか、いろいろと教えてくれた。 そのとき、私の中にある光が灯ったのも事実である。 この課長は、いわゆる職場のエリートクラスにはいる。私の考え方からすると、仕事だけしているような印象があったのだが、私なぞ足元にも及ばない体力を持っていることにここで気づいたのである。 そんな話を遊走会長である上司にすると、上司は、さもあらんという顔で、 「そんな人は結構いるぞ。あいつも、あいつも・・・それに、仕事帰りに、ジムに寄って帰る人もたくさんいるぞ。」 とおっしゃられたのだ。その聞かされた名前は、私が知る「仕事のできる」人たちが列挙された。 帰宅後、上司に教えられた「ランネット」サイトから過去の大会の記録を調べてみる。 そして、ある先輩を目標にすることにした。 そうだ!もはや、走るだけではいけない。 これからは、スピードが必要だ。 今は無理でも、一〇キロを五〇分。これを目標にしよう。 競歩の詳しいルールは知らないが、簡単に言うと、両足が一瞬でも完全に浮き上がるのが「走る」、そうでないのを「歩く」というらしい。だから、この後、 多少ペースを上げたとしても、それは「歩く」という範囲を超えないのは承知のうえで、「走る」とか「ランニング」とかいう表現が出てきても、それはご了承 願いたい。 だが、私の周囲には、既にある歯車が回り始めていた。 3 平成二一年夏〜愛媛マラソンのコース変更の話 「坊っちゃん一緒にらんランRUN」 ついに、初めてのマラソンレースに出ることになった。 種目は、イチワリマラソン(四・二一九五キロ)、一〇キロ、そしてハーフマラソン(二一・〇九七五キロ)の三種類がある。 ここで悩んでしまう。一〇キロでは少々物足りない気がするのだが、ハーフとなると、ちょいと自信がない。というより、そんな距離をまともに走ったことがない。 やはり、今回は初レースということで、固く「一〇キロ」だろう、ということで、一〇キロの部で申し込んだ。 それを聞いた上司は、 「うーん、もったいない。」 と、おっしゃる。私は昼休みに堀之内公園を走っているのだが、時折上司が同僚と散歩しているのを見ることがある。そのときの私のフォームを見ていたらしい。 「あの走り方なら、ハーフは十分走れるのだが。まあ、申し込んでしまったものは仕方ないが。」 上司の意見はこうだ。 私は、膝に爆弾をかかえているから、着地のショックを避けるため、足を上げない。地面をずるような走り方をする。見た目には決してスマートではないことは判っている。それが、上司には経済的な走法に見えたらしいのだ。 「そういえば、愛媛マラソンが来年から県庁前出発になるらしいぞ。制限時間も伸びるらしい。五時間か六時間か今検討中らしい。」 「四二・一九五キロ ですか。」 「六時間だったら、時速七キロちょっとで走りきれる計算になる。走ってみてはどうか。」 うーん、かつて、内子から広田まで二八キロ歩いたとき、最後には、なんだか足の裏の皮が擦り剥けていくような感じになったものだ。しかも、歩いてそれだ。走ったきのショックは計り知れないものがある。 というわけで、その翌日である八月一日(土)に今までの最長不倒距離(つまり二八キロ以上)を走ってみようかと思い立ったのだ。 経路は、松山駅から伊予亀岡駅までJRで移動し、そこから自宅までの約三四キロを走る。 そのダメージで考えてみよう。 ところが、当日は朝から大雨。というより、大雨洪水警報がでている。 ただ、雨雲レーダを見る限り、まもなく雨は上がりそうな様子である。 仕方なく、出発を一時間遅らせることにし、松山駅10時31分の電車で一路伊予亀岡駅をめざす。 ところが、この電車は、途中の粟井駅で停車したまま動かない。そのうち、こんなアナウンスが入った。 「波止浜駅付近で土砂崩れがあり、先行する特急しおかぜ14号はこの先の伊予北条駅で運転を打ち切りました。この電車は、その特急列車が特急しおかぜ3号 のダイヤで松山駅まで回送するため、その特急が通過後、とりあえず伊予北条駅まで運転します。その後、伊予西条駅までの運転見込みは不明です。」 これは困った。運賃のことだけを考えれば、ここで一五分ほど待って、そのまま伊予北条駅まで行き、そこで運転打ち切りとなれば、その先の運賃が払い戻しになる。 が、私は、既に予定時刻よりも一時間遅れでこの場所に来ている。 この先、伊予北条駅に到着しても、運転打ち切りだのなんだのと言っていたら、すぐには下車することになはなるまい。 ということで、金額的にはまことにもったいないことだが、粟井駅で途中下車、運賃前途放棄して、ここから走ることにした。 その変更となるコースであるが、粟井駅から浅海駅まで往路一〇・四キロ、復路は粟井駅前までの一〇・二キロを経由し、自宅までの三一・八キロとなる。 粟井駅を一一時〇二分に出発し、ひたすら約一〇キロ先にある浅海駅をめざす。幸い、北条では今朝百ミリの雨が降ったということもあり、真夏にしてはかな り涼しく感じる。ただ、山の斜面では、歩道に向かって水が噴出しているところもある。歩道の下の水路からは水煙が上がっている。今は涼しいのだろうが、そ のうち暑くなるのだろう。 そのような場合の対処方法を全く知らない私は、涼しいことをいいことに、ペースを上げたりしながら、浅海駅には一二時二〇分に到着する。一〇・四キロを一時間一八分。まずまずのペースであるる。 ここで、トイレ休憩をし、一二時三〇分に再び松山をめざして出発する。途中で特急列車を見かけたから、その間に運転再開したらしい。伊予北条で普通列車の中でうろうろしていたら、いったいどうなっていたか判らない。 そうして、再び粟井駅、正確には旧国道の粟井駅口を一三時四五分に通過。つまり、二〇・六キロを二時間三三分で通過したことになる。 が、ここから地獄の苦しみが始まることになる。 今から考えれば、真夏に三〇キロを走るということが論外だったのかもしれない。つまり、この粟井駅付近のハーフマラソンの距離が私の限界だったのだろう。 しかも、太陽が姿を見せ始めた。その後は、粟井から堀江のJRオーバークロスまでの六・〇キロに五七分と、時速約六キロ、ほとんど歩くほどのペースになってきた。 結果は、三一・八キロを四時間二五分。 これは、マラソンの制限時間が六時間だったらなんとかなるが、五時間だったらなんともならないということがはっきりしたのであった。 4 平成二一年秋・ダイエット開始二年経過 そういえば、先の四国一周自転車特攻隊の話であるが、五月のゴールデンウイークに土佐くろしお鉄道あかおか駅から阿佐海岸鉄道甲浦駅、七月には雨の中、 初めて親子三人で、甲浦駅から徳島駅、八月下旬には徳島駅から坂出駅、九月のシルバーウイークには二回に分けて、坂出〜伊予三島駅〜今治駅と、いよいよ最 後の一区間を残すのみになっていた。 あとは、正月の今治帰省時、往路自転車を車に積んで、復路は自転車で走ることになるのだろう。 一方で、この頃は一六・九キロを一時間四二分という記録が残っている。単純にハーフマラソンに換算すると、二時間七分になる。 「フルマラソンで四時間半を切るためには、ハーフマラソンでは二時間を切る速力が必要になる。」 とおっしゃった上司の言葉を思い出す。 そんな中、平成二一年一〇月一〇日、かつての上司宅で焼肉パーティをやろうということになり、元上私宅近くのコンビニで着替えることを想定し、市坪駅からちょうど一〇キロのコースを設定して走ってみたのである。 結果は、五五分ちょうど。 一〇キロ五〇分は夢のまた夢だった。 当時の私のハーフマラソンの目標タイムは、時の松山市長(現愛媛県知事)の二時間一五分にあったのは間違いあるまい。松山市長という要職にありながら、 そんな速度で走れるというのは、世の中の不公平感を感じるようで、まずはその記録を抜くということに燃えていたのも事実である。 そして、一〇キロを走った二日後といえば、ダイエットを始めてちょうど二年となる私の四七歳の誕生日。とりあえず二〇キロを走ってみようと自宅を出発したのであった。 ところが、五キロの記録を見て唖然とする。 二八分で通過。 これは、何かの間違いだろう。設定距離を間違えたか?今まで、だいたい五キロを三二分かかっていた自分には早すぎるペースである。 が、一〇キロを五七分で通過したとき、当初の二〇キロで一旦自宅前のゴール地点へ戻り、自宅周辺の一・二キロ周回コースを一回走り、残る百メートルをカットする、つまり、二一・一キロ走ることを決めた。 結果は、二〇キロを一時間五二分、二一・一キロを一時間五七分で走りきったのである。 これって、ひょっとして、フルマラソン四時間半で走れるってこと? 一方で、初めての大会、坊っちゃん一緒にらんランRUN・一〇キロの部への出場まであと一ヶ月となった。 そろそろ、一〇キロのスピード練習をしなければならない。が、一〇キロの記録をあと五分短縮したい。 というわけで、ハーフマラソン試走二週間後の一〇月二四日に一〇キロの試走をしてみた。 その結果なのであるが、最初の〇・五キロを二分二〇秒で通過する。いや、これは速すぎる。若干スピードを落としたのだが、一キロ四分五〇秒、二キロ九分四〇秒。 このままのペースだと、一〇キロは四八分となる。私としては、とてつもないペースとなるのだが、だからと言って、これ以上ペースを落とすのは、一歩一歩ブレーキをかけているのと同じだ。 とにかく、このペースでどれだけ行けるかやってみよう。 結果は、五キロを二四分一〇秒、一〇キロは四七分五五秒という、私としては予想だにしない記録が出た。 今まで、一〇キロを五五分前後で悩んでいたのは一体何だったんだ。 その後も、大体同じようなペースで走り続け、大会一週間前には、ついに四五分台にまで突入した。 そして、私としては、初めての大会に出場したのである。と 5 平成二一年一一月二三日・初めての大会 初めての大会、坊っちゃん一緒にらんランRUN・一〇キロの部、ついにその日がやってきた。 私にとっては、すべてが新鮮な体験だ。 前日の朝降っていた雨の影響もなく、当日は良い天気だった。 職場の上司は、 「寒さを考えると、ランニングウェアの上に百円ショップのビニール合羽を羽織って、スタート時に捨てさせてもらうこともある。」 「水分補給は、レースの命である。」 など、いろいろなアドバイスをもらったが、当日は結構暖かく、ビニール合羽を持参していたものの、必要ないと判断。 また、アイソトニック飲料をちびちびと飲んでいる人がめだつ。 一方で、レース中に音楽を聴こうとしている人もかなりいる。 おおっ、そうだったのか。と、私も急きょ、携帯電話のミュージックプレイヤーを用意する。 このミュージックプレイヤーなのだが、多分厳密に言えば「競技中は他人のアドバイスを受けてはならない。」に引っかかるのだと思う。だから、最初は使用しないつもりでいた。 実は、私は、マラソンや駅伝に関しては、決して走れない頃から、テレビやラジオに接していた。 だから、その程度のことは、むしろ耳年増として知識をもっているのだ。ミュージックプレイヤーと言いながら、実際には外部コーチからの指示を逐一受けていれば、確かに失格となる。 だが、実際には、その適用を受けるのは、陸連登録者であって、我々市民ランナーの場合は、多分黙認されるのだろうということも、ここで初めて体験できた。 だが、この大会、元々はボランティアで運営されていたらしく、私のような者が増加すると、結構支障がでてくるようだ。 私は、自転車で会場に乗りつけたが、この会場は重信川と石手川の挟まれているから、進入路は限られている。会場へ自家用車でこようとする人々が、会場の取り付け道路を超え、国道まで数珠なりになっている。しかも、公園内には競輪場もあって、今日は開催日である。 私は、ハーフの部のスタート二〇分後にスタートするので、事前にトイレに並んでいたのだが、ハーフの部スタート一分前になっても、まだトイレに並んでいる方もいる。たまりかねて、列を譲ったものだ。 そして、いよいよ私にとっての始めてのランニング競技がスタートする。初めてということで、奥ゆかしく後方に並んだものだから、号砲一発後、私がスタート地点を通過したのは、三〇秒後。スタート後も前のランナーに阻まれて思うように走れない。 最初の二キロを一〇分三〇秒だったときにはどうしようかと思ったものだ。 実は、試走の距離は、今まで松山〜宇和島間の貫歩、四国一周・自転車特攻隊でお世話になった「ちず丸距離計測」サイト(現在は閉鎖)からはじき出していた。 このサイトの距離は、果たしてどこまで正しいのか?という不安はあった。自転車特攻隊などでは、一キロ程度の誤差は気にならない。だが、マラソンになると、百メートルでも大きく影響を受ける。 だが、重信川南岸走行中の三キロを一五分三〇秒、これは昨年同日、私がこの大会に紛れ込んでしまったときの場所であり、JRで折り返すためにランナーが交錯する場所でもある。 それが、河川敷へ降りた四キロを二〇秒で通過したとき、この一キロを四分四〇秒で通過したことになり、先の「ちず丸距離計測」に大きな誤りがないことを確信する。 結果は、五キロをネットタイム二四分四五分かかったものの、後半五キロを二二分一五秒でカバーし、記録はネットタイムで四七分〇〇秒であった。 これで、私は押しも押されぬ市民ランナーの一員となったのであった。 が、一方で、確かに一〇キロ程度では短い、と思ったのも事実である。 それよりも、ひとつ問題が発生した。 それは、一〇キロ走に重点を置いていたことによる。 一〇を四七分で走ることそのものは、決して楽ではない。 だが、結果的には「たった四七分しか走っていない」ということでもあった。 だから、体重が増加傾向になったのである。 これは面白い! などということでは済まされない。 私は一体何をしていたんだ!ということでもある。 私には、結局一五キロからハーフマラソンが似合うのかもしれない。第一、あのスピードから開放される、という重いが強かった。 確かに、この一ヶ月は一キロを四分三〇秒から四〇秒程度のペースで走っていた。結果的に体が付いてきてはくれたもの、この年になって、こんな速度で走るなどということは思いもよらなかった。確かに、このペースは精神的に辛いものがある。 だから、その次の週末である一一月二八日(土)には再び二一・一キロを走ってみた。 もう、あの一キロ四分台で走らなくていいんだという、楽な気持ちもあったろう。 結果は、一時間五〇分四五秒。 私の誕生日の記録を一気に六分以上縮めてしまった。 私は、一体どれほどの潜在体力があるんだ?と、低いレベルで感心したりする。 そして、翌週私の運命を左右することが起こったのである。 (2012.01.09) |