伊予鉄道の廃線跡

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カシミール3Dから転載。航空写真は国土交通省のサイト「国土情報ウェブマッピングシステム(試作版)のご利用に当

  

(左1)札の辻・・・松山電気軌道は現在の国道196号を走らず、ここでクランクカーブをしていた。

(右2)これがクランクカーブしたあと、走っていたと見られる場所。かつては、この場所は空き地や低層住宅があったため、その場所を特定することができたが、現在は完全に高層建築物に覆われてしまった。しかし、(3)の場所まで、一直線で壁があるところが、かつて細長い構造物、それが鉄路であったことをうかがわせる。

  

(左3)平和通側・・・(2)から一直線で結ぶとここへ出てくる。同じく壁があるのがわかる。ここから、松山電気軌道は古町駅方面(つまりこちら側)へカーブしてくる。

(右4)平和通古町駅方面・・・この場所を西進した後、古町駅直前で北西(画面右奥)へと進路を変える。その場所は多分現在の味酒町信号付近であると考えられ、完全に道路にリリースされている。伊予鉄道職員駐車場から職員団体用(?)建物付近を通っていたものと推測されるが、同じ伊予鉄道となった後では、痕跡がないのも仕方がない。

  

(左5)古町北側踏切・・・伊予鉄道の上をオーバークロスする松山電気軌道の写真が現存するが、それがこの場所(厳密にはもう少し後方と思われる。)

(右6)古町駅構内

  

(左7)古町駅北側踏切の北西側に残る橋脚・・・松山電気軌道の数少ない構造物である。

(右8)橋脚跡から北西へ伸びる線路の跡地・・・昭和7年の地図を見ると、すでに廃線となった松山電気軌道(萱町〜三津浜間)の中で、現在の四電工あたりへ向かって伸びる線路(多分車庫)がある。その状況を航空写真で見ると、あきらかに線路があったと思われる痕跡がある。(8)については、その線路跡であったと思われる場所であるが、撮影した後方には、斜めに走るブロック塀がある。

  

(左9)(右10)四電工東側駐車場・・・航空写真を見た後にこの場所へ来ると、明らかに斜めに走るブロック塀に気づく。さらに、(9)の道路をはさんで左側の奥には、(8)でいう斜めに走る民家のブロック塀が確認される。

ここから衣山方面へは通称六軒家道路にリリースされたものと考えられ、痕跡はまったく確認できない。

  

(左11)衣山〜西衣山間で通称六軒家道路が伊予鉄道を越える場所・・・左手はかつて伊予鉄道トンネルがあったとされる場所。電化するにあたりトンネルを取り壊して、切通しにしたという。松山電気軌道は写真右奥から右手へと通っていたものと思われるが、痕跡不明。

(右12)松山電気軌道は、この場所で国鉄をオーバークロスしていた。

  

(左13)松山電気軌道は、この場所で国鉄をオーバークロスしていた。ただ、よくわからないのが、松山電気軌道は明治45年に三津まで開業し、昭和2年11月に廃止している。国鉄が松山まで開通したのが昭和2年4月である。後から開通した国鉄の方がアンダークロスしているということである。

(右14)この写真のとおり、国鉄の方が低い位置を走っていたとはいえ、すでに開業していた松山電気軌道との交差部分を切通しにしてアンダークロスするということは、かなりの工事が行われたものと思われる。しかし、半年とはいえ、この場所に3本の線路があったというのがすごい。

  

(左15)衣山5丁目・・・この道路が線路跡とされている。この場所は「H開発」という地元の業者が開発した場所であり、向こうに見える十字路から先は業者所有となっている旨の看板がある。十字路を右へ行けば伊予鉄道西衣山駅へ、左へ行くと愛光高校へ出るが、その道も、前方の道もかなり最近になるまで舗装されていなかったのも、業者所有地だからである。

(右16)かつての江戸谷〜山西間・・・枕木が塀代わりに立てられている。

  

(左17)新田高校前踏切・・・地図を見る限り、双方がこのあたりで再び接近しているが、松山電気軌道はここから西へと向きを変える。なお、伊予鉄道はこの踏切から山西駅までは画像右側へと迂回しており、昭和6年に現在の線路に付け替えられている。なお、この場所と山西駅では、当時の線路の遺構がある。

(右18)三本柳交差点・・・画像右からきた線路はここで向こうへと進路を変え、終点三津浜(江ノ口)へと向かう。

(2009.04.26)

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