2004秋の謝恩きっぷ

愛媛の「鉄」の紹介へ > JR四国の話題へ  JR四国旅行記 > 2004秋の謝恩きっぷ

<< 第1章へ戻る

第2章 11月7日再び西四国一周編

松山〜多度津間8M特急しおかぜ8号

(以下の写真は特に説明がなければ旅行日)

私は通常8Mで松山から今治まで通勤している。平日の8Mの自由席車は今治までは超満員である。が、この列車は修学旅行にもよく使われており、しばしば自由席が減車されて、迷惑を被る。それと、週末はグリーン車の利用率が良い。一体どのような人が乗ってくるのだろうか。

8Mは7時19分に松山を出発する。なんということはない、明日からまた1週間乗車する列車である。グリーン車の乗客はかずまるを除いて2名。私が5Aで、あと3Cに乗客がいる。ここから宇多津までの間にほぼ満席になるのである。さて、私は今治出身である。今治といえば、四国の中では大阪商人の影響を多く受けており、商売人根性の街である。幸か不幸か私には商売の素質が全くないので、現在の仕事が向いているが、私の父と弟は商売の素質に恵まれているらしい。そして金銭にうるさい。関西の快速からグリーン車が姿を消したのも納得できる。というわけで、まさか今治からグリーン車に乗車してくる者は、まあ先日の女性のような人だけだろうと思っていたら、なんと、ここで3組の夫婦が乗車してきた。地方の特急でも1両の半分でよいからG車を連結して欲しいという要望があるのもよく解る。が、この3席シートというのも、実際、B席というのは、そういう人たちのためにあるといっても過言ではないような気がした。

  

(左:多度津駅で保存されている蒸気機関車、右:多度津駅での3MR8000系【拡大可】)

新居浜からは3人のビジネスマンが横一列に並んで座り、伊予三島では1組の夫婦が乗車してきた。これで、AB席は私が乗車している5Bを除いて満席となった。また、2C、4C、5Cも観音寺までに乗客が来て、なんと空き席は5Bと1Cだけになった。その1Cに詫間から女性が座った。見るからにグリーン切符を持っていませんという様子で、車掌から切符を買っていたが、この女性は大型の三脚とカメラを持っていた。あるいはプロのカメラマンかもしれない。そういえば、昨日の帰りの13Mで、箕浦付近の高速道路の法面の上からカメラを向けていた男性がいた。

多度津着9時13分、宇多津までの特急券を買っているが、ここで下車する。31分ほど時間がある。多度津駅は視界に入る駅構内の大きさだけを見れば、四国で一番大きな駅に見える。親戚が高知にいることもあり、今治から高知へ向かうときは、多度津で乗り換える。この乗り換えであるが、かつては乗り換えに結構待たされたが、数年前は結構接続時間が良かったような気がする。それが、また30分ほど待たされるということになっている。これは岡山方面の接続を優先しているからである。10年ほど前は、多度津で上下の予讃線と土讃線の4本の列車が勢ぞろいしていたように思う。だから、接続時間はわずかだった。ところが、予讃線では「しおかぜ」「いしづち」が多度津で完全分離運転するようになって、岡山では予讃線が「のぞみ」から、土讃線は「ひかりレールスター」からの接続となって、岡山〜多度津間は約30分ごとに特急が走るようになった。さらに、現在は予讃線の分割、併合が宇多津に移り、土讃線も増発された「のぞみ」からの接続となった。宇多津で予讃線の分割、併合が行われるようになっても、予讃線特急は全て多度津に停車しているのに比べて、土讃線は上下1日7便が通過するため、多度津が予讃線と土讃線の接続駅とは一概に言えなくなった。そういえば、予讃線と高徳線の特急の接続もかつてより悪くなったような気がする。四国の特急は今や高松でもなく、完全に岡山を向いている。

まもなく入ってくるR8000系を見てから、大歩危トロッコの停車している4番ホームへ向かう。キクハ32-501である。これがここにいる限り、予讃線下灘付近でのトロッコは運転されない。ちなみに、「トロッコ」とは英語で書くと、単に「トラック」になることに初めて気づいた。

  

(左:昨日も見た大歩危トロッコ【拡大可】、右:多度津駅を通過するアイランドエクスプラス四国U)

次に、多度津駅で静態保存している蒸気機関車を見に行く。最近ここを頻繁に通過しているのだが、なかなか見る機会がなかった。運転席のところへは自由に入れるようで、結構かずまるは興味深そうに見ている。30分ほどの時間はあっという間に過ぎてしまった。再び多度津駅の4番ホームへ向かう。多度津駅の3、4番ホームには売店と簡易食堂がある。昨日買ったたこ焼きがおいしかったので、買おうとすると、そこに現物があるのに「10時までは売れない」という。売らないことであるのか、なにか利権がらものものでもあるのか、次の南風3号は多度津を9時44分に出発するので、買うことができない。

多度津〜窪川間33D特急南風3号

特急南風3号は定刻に多度津に到着する。どうもこの夏以来の災害以来、列車が定時に運行されるという概念が欠如しているような気がする。もっとも、予讃線に関しては、昨年10月のダイヤ改正以来、夕方以降の列車遅延が頻発しているということもある。車内はかなり混んでいた。我々の座席の隣のB席は幸い空いていたので、AB席で並んで座られていただく。今まで見た限りでは、全くの他人がAB席に並ぶということを見たことがない。四国のグリーン車の場合は通常そういうものかもしれない。これから窪川までは約3時間の長旅である。

昨日もそうだったが、琴平が近づくと自動音声で車内案内が始まる。琴平駅のポイントを過ぎたとき一瞬あれっと思った。上下線とも1番ホームに到着するのである。何が、あれっ、と思うのか?「アンパンマンスタンプラリー」である。昨日の琴平の段階では、列車2個、駅2個の応募しか考えていなかったから、琴平でのスタンプは考えてもいなかった。が、昨日の「ゆうゆうアンパンマン号」により、列車4個、駅7個以上が可能になった。今現在でも駅8個は可能ではあるが、ここまで来たら、もっと押したいと思う。案の定、改札口の隣にスタンプがある。私はスタンプ帖を取り出した。が、1号車というのが悪かった。列車は遥か前方まで行ってしまった。走れば間に合ったのかもしれないが、かずまるを置いてきぼりにはできない。諦めることにした。少々気づくのが遅かった。「降り口は右側です」のアナウンスで気づくべきであった。隣のホームに先ほどの「大歩危トロッコ」がいた。次の土佐山田では考えてみよう。

琴平と次の阿波池田でグリーン車は5席を除いて全て下車した。阿波池田では、多分トロッコに乗車するのであろう。阿波池田着は10時20分。松山から3時間かかったが、ともあれ、今日の始発駅にやってきた。

池田町の橋は規模の大きいものが多い。特に阿波池田を過ぎると、徳島自動車道「池田へそっ湖大橋」が見える。池田町は鉄道も国道も四国の中心であった。が、高速道路に関しては、中心は四国中央市川之江に譲ってしまった。20年以上前、徳島で新聞を読んでいると、そのことに触れ、高速道に関して四国の中心が当時の川之江市になったことに対して、行政を批判する記事を読んだことがある。

  

(左:三縄〜祖谷口間で吉野川を渡る、右:小歩危〜大歩危間で吉野川を渡る)

阿波池田から先は、吉野川に沿って、鉄道と川の両岸の道路がわずかな空間を求めるように敷かれている。が、道路が護岸を築いて敷かれているのに対して、鉄道は山の中をくりぬいて抜けている。予讃線伊予大平〜伊予中山の犬寄トンネルが開通するまで、大歩危トンネルが四国で最も長いトンネルだったことも納得ができる。というより、山を越すわけでもない大歩危トンネルが四国で最も長いトンネルだったことに子供ながら不思議に思ってきた。特に三縄〜祖谷口間では、吉野川を渡るために、前後に城倉トンネルと永見山トンネルがあるが、両方のトンネルともかなりカーブしているのには興味をそそる。

この先だんだんと吉野川の川幅が狭くなって、大きな岩が目立ち始め、大歩危小歩危のイメージがわいてくるのだが、そのあたりで阿波川口である。小歩危駅はそのひとつ向こう、その向こうに大歩危駅がある。列車で外を見ていると、線路の川側に国道があって、特になんともないように思えるが、カーブした先を見ていると、国道はかなり橋になっていることがわかる。

不思議なことに、景観だけから言えば、小歩危のほうが良いような気がする。大歩危に関しては、ずいぶん待たされたという印象が強く、むしろ、景色も大味なイメージを持つようになる。木々に邪魔されていることと、対岸にドライブインなどが乱立しているからそう思えるのかもしれない。10時39分大歩危着。たった19分とは思えない、土讃線のハイライトで、自動車窓案内も流れる。ここで2名が下車し、車内は我々以外は2名となる。

大歩危を過ぎると、しばらくして大歩危トンネルに入る。今までのイメージとして、絶壁のすぐ内側にトンネルを掘ったような印象があったのだが、地図を見ていると大歩危トンネルは川より500メートル程度山側を抜いていることが解る。このあたり、国道の反対側は河川管理道も作れない絶壁であり、道路側からは絶景が眺められるのであろうが、これが鉄道の観光資源としての最大の決定なのかもしれない。トンネルを抜けると、だんだんと絶壁の風景がおとなしくなってくる。実際には鉄道の撮影ポイントがあるのであろうが、2週間前もそうだったようにこのあたりから眠たくなってしまい、気がついたら、ちょうど新改のスイッチバックを過ぎるところであった。

11時19分土佐山田着、今度はかずまるに絶対に車外に出ないよう忠告をしてから、3号車あたりまであらかじめ移動して、列車の停車と同時に飛び出してスタンプを押し、そのまま6号車(前から4番目の車両)に飛び乗る。が、かずまるが心配で列車の中を1号車に向けて走っていくと、かずまるも1号車から2号車へ列車の中で移動していた。すでに扉は閉まっており、ほっとする。というより、なんで「スタンプラリー」でここまで疲れにゃならんのだ、と思う。

  

(左:高知駅での33D南風3号、右:高知駅から見た市内循環バス)

11時32分高知着。ここで時刻表上8分、1分延着で7分停車する。スタンプを押すのは問題ない。先客が多く、少々時間を要した。そして、売店でかずまるの昼食を買って、私は駅弁を物色する。2週間前は「かつおのたたき弁当」を買ったが、今回は何を買おうかと思っていると、かずまるがせきたてる。時間はまだ3分ほどあるが、そのうち「時間がない」とべそをかき始める。後ろ2両を切り離すものだから、必要以上にディーゼルの音が気になったのかもしれない。小心者めと思ったが、結局駅弁を買えず、ホームの前方にある売店でちらし寿司を買って車両に戻る。

11時39分高知を出発する。我々は2AB席に座っているが、高知から老夫婦が乗車して来た。高知を出てしばらくすると鏡川を渡るが、いきなり大きな声で、「これが四万十川か?」といい始める。この様子ならば、これから先何回同じことをいうのか気にかかる。が、列車は川を越えて朝倉駅の手前で停車する。4742Dが遅れているのである。2週間前も同様だったが、やっと動き出して車内を見てみると満席であった。伊野を過ぎて仁淀川にかかると、再び前の女性が「これが四万十川か?」という。

土讃線といえば、瀬戸内から太平洋まで四国山地を縫うように走って、高知からは太平洋沿いに走る、というイメージがある。私のと知識としては、その間に佐川を迂回してから須崎で一度太平洋に出て、窪川で再び四万十川の上流に出て、土佐くろしお鉄道に入ってから川奥信号場からループで再び太平洋に出るという印象を持っていた。が、実際に地図を見ていると、高知から先はそのような単純な地形ではないことが解る。

仁淀川を過ぎると佐川までの間に日下川に沿って、西佐川までの間に低い分水嶺を越える。2万5千分の1の地図で佐川町を見ると、北西の越知町のあたりに再び仁淀川の表記がある。西に向かっているのに先に西佐川があるので有名だが、国道ともこの区間は完全に逆行する。その国道は土佐加茂付近から南下して、やはり佐川町の間にトンネルで分水嶺を越す。

かずまるの相手をしていて、斗賀野の配線跡を探すのを忘れたが、20年前に一度四国一周をしたときには、ここにはまだ引込み線があって、初めて見た私は非常に記憶に残った。斗賀野トンネルを抜けると、太平洋側に出る。トンネルを出てすぐの右手にはセメント工場が山に張り付いた城壁のように見える。専用線はなくなったが、石灰岩の産出は続けられているということだろうか。

  

(左:須崎駅での754D1000系気動車、右:須崎駅での50D南風20号)

12時14分須崎着。ここで南風20号を退避するため7分間停車する。予讃線や土讃線高知以東ではあまり見ることのできない豪快な停車をする。我々もホームに出て列車を眺めたりするが、南風20号の到着時刻になると「すぐに出発します」という車内放送がはいる。須崎駅を過ぎると新庄川を渡る。ということをかずまるに言っていたら、例の女性が「新庄川らしい」と言う。この川に沿って国道56号から国道197号が分岐して愛媛県日吉村、八幡浜方面へと向かう。宇和島へ行く場合でも、この分岐店からちょうど2時間で行くことができる。2時間といえば、窪川から宇和島までの列車の所要時間と同じである。須崎から窪川までは特急でもあと26分かかるし、そこからは予土線で上下1日13本しか運転されていない。どうしても、車社会とならざる得ない。

須崎を過ぎると、いよいよ太平洋が見えてくる。安和を過ぎると、鉄道写真でよく見る風景の中を走る。旧国道の山の上から見られたらな、と思う。そのポイントを過ぎると、列車はすぐに山の中へ入っていく。太平洋が見られたのは、時間にしたら1分もないほどであろうか。この先は窪川まで一方的に坂を上っていくことがわかっている。が、少し長いトンネルを抜けると、土佐久礼に停車する。土佐久礼は中土佐町の海辺の駅である。どうも、土讃線は海沿いを走ることがあまりない路線のようである。だが、その後は、いよいよ峠越えが始まる。一気に四万十川の上流まで駆け上がる。影野トンネルを抜けたところで、標高252メートルと地図に書いてある。これを、おおっ、一気に登ったなと思うのか、それとも四万十川の上流なのにその程度しか登っていないのか、意見の分かれるところかもしれない。

  

(左:安和付近で太平洋を望む、右:窪川駅から車内販売員が乗り込む)

ここで、いよいよ四万十川の支流が見え始める。が、すでに窪川が近づいており、3時間の列車の旅が終わろうとしている。12時47分、窪川に到着する。

南風3号は窪川で10分停車する。待つのは土佐くろしお鉄道の普通列車である。それはともかく、車内販売がJR四国内の列車から消えて1年がたつが、土佐くろしお鉄道では車内販売員が乗り込んでくる。これは意外な風景である。それから、昔の窪川駅構内図を見れば解るが、本来窪川駅は島式ホームとその外側に1面のホームがあるだけだったが、多分土佐くろしお鉄道が開業してからたと思うが、島式ホームの手前、改札口の左側のホームができていて、まもなくやってきた土佐くろしお鉄道の車両が停車する。このときには、1番ホームに土佐くろしお鉄道宿毛行き、2番ホームに1000系気動車高知行き、3番ホームに南風3号、4番ホームにキハ32宇和島行きと全てのホームが埋まる。

さて、窪川駅ではいろいろとやることがある。まずはスタンプを押すことである。これは改札口横にあった。次にこの切符を見ていて気づいたことだが、この切符では土佐くろしお鉄道内を乗車できないと書いてある。先の「バースデイ切符」は最近乗車可能なったとあったため、今の今まで気づかなかった。つまり、この切符では、窪川〜若井間は別切符が必要になる。その旨駅員に告げると、ここはJR切符しか売っていないので、列車で支払って欲しいといわれる。なるほどと思うが、仕方ない。児島駅でJR四国の特急券が発行できなかったことに比べると、仕方ないと思う。そして、最後にトイレに行っておくことである。私だけならともかく、かずまるには言い聞かせておかなければならない。

  

(左:窪川駅3番ホーム南風3号と4番ホームキハ32【拡大可】、右:窪川駅1番ホーム土佐くろしお鉄道の車両と2番ホーム1000系気動車高知行き【拡大可】)

窪川では30分ほどの待ち合わせで、13時22分に4843D宇和島行きが出発する。列車は市役所など街の中心部を走ったかと思うと、1分もしないうちに四万十川本流に出る。乗客の半分以上は観光客のようであり、みんながいっせいに右側の景色に釘付けになる。

四万十川が見え始めると、家並みが途切れてしまうが、次に集落が見えたところに若井駅がある。カーブの上にある駅で、かずまるが「傾いているねえ」と言う。ここで、運転士に整理券と乗車券を提示したうえで、運賃200円を払う。運転士は2週間前に乗車したときと同じ人であった。本当はこの先の川奥信号所からが予土線だが、運賃計算上は若井からは再びJR四国の予土線扱いとなっている。

若井トンネルに入ると、四国で唯一のループ線が近づいてくる。かずまるにそのことを言うと、土讃線に入った頃からずっと「まだ?」を連発されていたが、ようやくそのときがやってきた。トンネル内前方に信号機が見えてきた。ただし、我々の乗っている列車は当然ループはしない。

川奥信号場で停車する。ここで、宇和島までの間で唯一列車との行き違いを行う。がすまるに右側へ向かう線路を見せるが、2週間前と少々停車位置が違うためか、荷稲側の線路が草に隠れて見えない。よく考えたら、2週間前はキハ32系2連であったが、今日は単行である。

前方から4840Dがやってくる。後方にトロッコを連結している。4843Dが出発すると、すぐに眼下に土佐くろしお鉄道荷稲側の線路が見えてくる。こちらは左側のトンネルに入っていく。まさに、トンネルに挟まれたわずかな場所に線路が敷かれている。さきほどの窪川駅といい、模型的な情景が続く。

  

(左:川奥信号場に進入する4840D、トロッコを連結している、右:川奥信号場から見た荷稲側の線路)

次の家路川を過ぎると、再び四万十川が見え始める。この付近で標高177メートルである。窪川駅付近が222メートルだから、50メートル下っていることになる。が、地図をよく見ると、若井から川奥信号場に入った段階で、一度分水嶺を越え、太平洋側に出て、再び分水嶺を越えて、四万十川へ出ていることが解る。このあたり、地形が複雑だ。家路川からは四万十川がゆるくカーブする間は川に沿って走り、川が急激に蛇行すると、さっさとトンネルに入ってしまう。江川崎〜若井間は線路の敷設時期が新しいから、地形に沿わず、トンネルだらけになっている。土佐大正を過ぎると、まさに、トンネル、鉄橋、トンネルと、4つのトンネルと4つの鉄橋でほぼ直線に突き抜ける。ただ、その割には高速運転ができない。

予土線がローカル線廃止を免れたのは、沿線の道路の整備状況によるものであった。「故宮脇俊三氏」は「汽車旅12ヶ月」の中で、江川崎〜窪川間を「バスで3時間かかったところを49分で走り抜けてしまった。」と書いている。私も2度ほど同区間を自家用車で走ったことがある。10年前の話であるので、3時間もかかった記憶はないが、道も狭い箇所が多く、確かに走りやすい道路ではなかった。2週間前は観光バスが走っているのを、列車が追い抜いていった。

江川崎14時16分着。窪川から56分かかっている。「故宮脇俊三氏」が乗車されたのは、当時宇和島から窪川まで快速で、窪川からは中村からやってきた急行に併結されて高松まで行く列車だったからであることを考えると、遅くはないと思う。だが、ここから宇和島までは1時間5分かかる。10年前に江川崎からトロッコに乗車したとき、宇和島駅で乗車すべき列車を見送ってから車で追いかけても十分間に合うと思ったことがある。また、宇和島〜近永間に至っては、予土線が伊予宮野下へと大きく迂回して35分かかるのに比べると、国道320号は宇和島駅から同市柿原までバイパスが抜ける前でも20分でいける。さらに、近永、松丸付近の国道はすい゛れもバイパスが整備されたから、圧倒的に車社会になっている。

さて、窪川から結構乗り込んだ乗客のうち、地元の人は江川崎までに全員下車し、さきほどのトロッコ列車に乗車して、再び宇和島方面へ帰るらしい人が数人乗ってきた他は、ほとんどいなくなってしまう。さきほどから前に座っていた老夫婦もずっと乗車しているが、私がずっと2万5千分の1の地図を持っていることに興味を示してから、話をするようになった。老夫婦は東京からやってこられたらしいが、その理由は「四万十川が見たい」というものだったらしい。今日はこれから松山まで行って道後温泉に泊まり、明日は昼間松山市内を観光するのだという。私が松山から四国一周をしていると聞いて、松山の見所を色々と話して、「レトロバス1dayチケット」や「伊予鉄時刻表」などを渡して紹介した。その場所は、なんといっても坊っちゃん列車に乗車すること、「坂の上の雲」の秋山兄弟のこと、種田山頭火の一草庵のこと、正岡子規の子規記念博物館など、そして道後温泉本館など少々渋い場所を教えた。家に帰って妻に言ったら、「渋すぎる。松山城くらい言っとけ」といわれたが、松山城はわざわざ私が言わなくても、解るだろうと思う。ちなみに、その間ご主人の方はカセットテープに私の声を録音していた。ご婦人も運転士に四国のパンフレットはないか、と尋ねていたりしていたが、この人は一体何者だろうかと思う。

  

(左:予土線風景、右:立間〜下宇和間の法華津峠を行く)

その老夫婦に「関口宏の子供の関口知宏さん」が最長片道切符で旅行したときは、まさにこの列車に乗ったのですよ、と言ったりしているうちに、かずまるが寝てしまった。そして、松丸で下車したことを言おうとしたら、なんと今日も松丸から大勢の親子連れが乗車して来た。今日は単行だから、ぎゅうぎゅう詰めになったが、かずまるは起きなかった。

その団体客はみんな近永で下車して、再び車内が静かになる。列車はいよいよ宇和島に近づいてくる。確かに宇和島へ近づくわけだが、実は、江川崎で標高72メートルまで降りてきた後は、四万十川の本流から分かれ、広見川をさかのぼっていく。そして、広見町近永から三間川をさらに遡り、務田では標高150メートルになる。務田からかなりの人が乗ってきて、そして、列車はここから一気に海辺の街である宇和島へと下っていく。結局かすまるは宇和島に到着するまで起きなかった。

宇和島では、再び帰りの列車での食糧を調達したりして時間をつぶす。いよいよ最終列車であるが、この列車もグリーン車はほぼ満席となっている。松山までの特急であるのに、どういう人がグリーン車に乗ってくるのだろうかと思う。まあ、私も人のことは言えないが・・・宇和島でもスタンプを押し、やがて到着したアンパンマン列車「どきんちゃん号」で今回最後のスタンプを押す。あとは残る「バイキンマン号」のスタンプを押したら全てが終了する。

宇和島駅からは標高1000メートルを超える鬼ケ城が見える。宇和島での4年間で4回登ったことがある。海抜ゼロメートルから登るし、江戸時代滑床渓谷へ避暑地に出かける伊達家の殿様を乗せて走る家臣が泣きながら登ったと言われるから「泣き坂」と呼ばれるくらい急坂が続く。そしてこの鬼ケ城の北側に位置する、三間町、広見町あたりを鬼北地方という。

15時48分、最終ランナー宇和海18号が宇和島を出発する。この列車はよほど寝心地が良いのだろうか、法華津峠を越えて宇和に入った頃から、三度熟睡モードにはいってしまった。伊予市に入って、目を覚ますと、やはり結構乗客がいた。ということは、八幡浜からも乗車した人がいたということになる。

17時10分松山到着。長かったようで短かった四国一周の旅が終わった。まさに、かずまると「終わったね。終わっちゃったね。」と繰り返しながら、松山駅の改札口を出る。が、出た瞬間、かずまるは「早く帰りたい」という。その魂胆は帰ってから自転車に乗りたい、らしい。列車に乗れて、旅ができて楽しかった反面、なんだかとっつきにくかった?というのがかずまるの感想だったようだ。

このページのトップへ      << 第1章へ戻る