2005秋バースデイ切符旅行記(3日目前編)

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(以下の撮影日は特に説明がなければ旅行日)

10月30日(日)松山〜多度津間8M特急しおかぜ8号

バースデイ切符もいよいよ最終日となった。今日も8Mで多度津へと向かう。今日の天気は良い。多度津駅ではSL急行義経号をゆっくりと見ることができるであろう。ただ、それにしても、今日と一昨日に8M乗車したというのに、昨日の8MがR8000系だったというのが運がない。まあ、仕方がないことではある。今日の8Mの座席も8号車1番ABの特等席である。が、乗車してみてあれっと思うことがある。足置きの場所が、異様に窓側の席側にある。足置き場に足を置いたら、少々腰が痛くなるほど右側へ寄せなければならない。はて?昨日はどうだったのだろうか。昨日は気にならなかったような気がするのだが・・・

  

(左:松山駅での8M特急しおかぜ8号、右:多度津駅での喧騒)

ともあれ、今日も一路多度津へと向かう。多度津到着は9時13分。だが、今日も「SL急行義経1号」はすでにホームに到着していた。今日は特にイベントはなかったのだが、一昨日とは比較にならないほどの混雑である。まあ、日曜日であることを考えれば当然かもしれない。おまけに、一昨日と違って、ホームと機関車の間にロープが張られていて、機関車にかずまるを立たせての写真撮影などとんでもないの状態であった。しかも、すぐに引き上げるという。

仕方がないので、多度津駅西側にある通路橋から眺めることにする。ここでも一昨日の予行演習は大きい。SLがどの線路を通って、どこに客車を留置させて、どうやって転車台へと向かうのか判っているだけに、群集よりもいち早くよく見える場所を陣取ることができる。やはり、一昨日は幼児とその母親又は父親(圧倒的に母親が多い)、あるいは私のような、わざわざ仕事を休んできましたという者が多かったのに対して、今日は明らかに子供の年齢層が上がっているし、両親がそろっているというケースが多い。

ともあれ、かずまるにこれが本当の蒸気機関車であるということを教える。5年ほど前に松山〜宇和島間でSLが運転されたときに親子3人で出かけたことがあり、かずまるは結構興味を示したのであるが、なにしろまだ2歳4ヶ月である。プラレール第1両目がD51ではあったものの、私の所有する鉄道模型には蒸気機関車は皆無である。おそらくは翌年10月に走り始めた坊っちゃん列車のイメージしかないはずである。かずまるは終始無言であったが、坊っちゃん列車と比べてどのように感じたのであろうか。

本来であれば、転車台へ出かけていくべきなのであろうが、我々はこの後9時44分発の33Dアンパンマン列車で一気に窪川へと抜けることになっている。今まで、多度津での予讃線から土讃線の乗換時間30分は間延びしたものであったが、今日はさすがに時間の過ぎるのが速い。その間に売店でかずまるは「肉まん」、私は「おでん2個」を買い込む。前のダイヤ改正で33Dの高知駅停車時間が4分に短縮され、期待できない。松山でも買ってはいるものの、窪川までの補充は必要である。まあ、1号車グリーン車に乗車するのだから、飲み物の方は心配要らない。午前中でもあり、我々の所望する飲み物は自動販売機にあるはずだ。

  

(左:多度津駅での風景、右:多度津駅で36Dアンパンマン列車が通過)

10月30日(日)多度津〜窪川間33D特急南風3号(その1)

9時43分33Dは多度津駅に到着する。その時になって、いやにホームに人が多くなったような気がすると思ったら、SLが高松を出発した後、最初の普通列車が9時37分に到着したのである。その中を慌しく乗り込んでホームを見ると、なんとそこにShi−Mamutaさんがいた。後に枯れのBlogから推測すると、高松8時44分発1007Mで多度津入りされたのであろうか。それとも、SL出発12分前に高松駅を出て写真撮影した後に、出発7分前の3134M快速マリンに乗り込んで、8時50分にはすでに来られていたのだろうか。挨拶だけで別れることになってしまった。

33Dも1号車1番席を狙ったのであるが、残念ながら確保できなかった。乗客は母親と幼児2名、それから母親の実父であろう4名。座席は2席確保で4席占領していたようだが、グリーン車の乗客は我々を含めてこれだけ。しかも、彼らは窪川でも下車しなかった。残念ではあるが、これまた仕方がない。ちなみに、グリーン車に備え付けられている毛布であるが、通常2枚なのだが、この列車に関しては3枚確保されていた。

多度津駅は四国の鉄道発祥の地とされる。軽便鉄道として発足した伊予鉄道は無視されたようである。それはともかく、丸亀〜多度津〜琴平間が開業したのは明治22年5月23日である。高松〜丸亀間の開業が明治30年2月21日、琴平〜讃岐財田間開業が大正12年5月21日となっている。

琴平駅の次の塩入駅には、土讃線の塩入ルート誘致に尽力した代議士増田穣三の銅像があるという。今何も考えずにこの付近の地図を見ると、なんとなく今のルートしかなかったのだろうな、と思うのだが、では他にどのようなルートが考えられたのか、推測してみることにする。言うまでもなく、琴平〜阿波池田間には大きな山地が立ちはだかっており、現在は猪ノ鼻峠を国道32号と共に越えている。

そう思って改めて地図を見ると、琴平〜塩入間も妙に線路が迂回している。ここから阿波池田へ抜けるには、猪ノ鼻峠とその東側にある東山峠の2つのルートがあることがわかる。

(琴平付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >>

  

(左:多度津駅での33Dアンパンマン列車【拡大可】、右:大歩危付近を走る)

まずは、猪ノ鼻峠ルートを検証する。国道32号で琴平を過ぎると、財田川水系にある現在の黒川駅に出るまでに、低いながらも縦ノ木峠を越える。この財田川は先の東山峠の北側に端を発して、満濃池の南側を抜け、西方にある観音寺へと流れる。ところが、満濃池から流れる川は琴平方面へ流れるにもかかわらず、財田川は満濃池の南側を通り、しかも、その間にはたいした分水嶺もない。にもかかわらず、黒川駅の西側では狭隘な地形を縫うようにして、最終的には観音寺方面へと抜ける。琴平へ抜ける方が楽そうであるのに、そうなっている。先ほどの塩入駅の南西にある後山にある池に至っては、池は財田川に流れるのに、もし、東側に流せは、琴平方面へと流れるのである。線路は讃岐財田付近で財田川の支流をいくつか越えながら高度を稼ぎ、最終的には国道32号と同様に猪ノ鼻峠を越える。徳島県側へ出ると、深い谷を持つ鮎苦谷川へと出る。そして、箸蔵寺のある山に縫うように坪尻、箸蔵と越えて、最後は小川谷川付近で大きくというより、180度向きを変えながら徳島線へと合流する。

一方の東山峠であるが、このルートは満濃池の西端から財田川水系へと出る。このあたりは先ほども述べたとおり、峠らしい峠を越えることなく水系を抜ける。その後は財田川水系から東谷峠を越えて、徳島県側では小川谷川を下るものである。こちらも、楽なルートではないが、猪ノ鼻峠並みのトンネルを抜くことを考えると、塩入から小川谷川の180度回転を考えると、むしろ、こちらのほうが距離も近いような気がする。

だが、現在の地図をよく見ると、東山峠から徳島へ入ってくる道が途中で切れている。県道4号というくらいだから県境を越える県道のはずである。それがなぜか、香川県から徳島県の三好町へ入って、男山から光清の間で道路が切れて、細い1本線になる。一応道そのものはつながっているのだろうが、MapFanの地図では道が切れてしまっている。吉野川の斜面でありながら、山とか竜篭という集落の人々は、普通車で移動するなら、峠を越えて香川県へ行ったほうが便利なのだろうか。

ひょっとすると、東山峠ルートは徳島県側の急勾配が原因で、トンネルを掘ったとしても、その後吉野川までに線路を降ろす敷設できなかったのではないだろうか。あるいは、逆に吉野川から登っていくためには、途中で猪ノ鼻トンネル以上の長大トンネルを掘る必要があったのではないだろうか。それに対して、坪尻からの鮎苦谷川は谷が深いことから坪尻という谷底に線路を敷設できたのではないのだろうか。そして、その決定がされたときに、国道32号沿いの縦ノ木峠ルートに線路が敷かれることに反対して、代議士増田穣三が東山峠ルート上にできるはずの塩入駅を無理やり作らせて、土讃線を捻じ曲げたのではあるまいか。

  

(左:大歩危駅を過ぎる、右:豊永で臨時急行「土佐」国鉄色とすれ違う)

33Dは吉野川へと一気に駆け下って、10時21分に阿波池田へと到着する。四国一周のために昨日乗り終えた場所へと戻ってきた。昨日述べたとおり、徳島から伸びてきた徳島線阿波池田駅の開業は大正3年3月25日、箸蔵の開業が昭和4年4月28日だから、土讃線が琴平から延びてきたのがこのあたりとなる。ところが、高知方面になると、次の三縄の開業が昭和6年9月19日だが、それより南側は逆に高知方面から延びてきた。日下〜須崎間開業が大正13年3月30日、高知〜伊野間開通が大正13年11月15日で高知から土佐山田まで延びたのが大正14年12月5日、大杉開業が昭和7年12月20日、豊永開業が昭和9年10月28日で、その後三縄まで全通したのが昭和9年11月28日となっている。従って、線路の敷設方法については、逆方向として考えなければならないが、まあ、仕方あるまい。

土讃線は三縄を過ぎると、城倉山トンネルと氷見山トンネルで角度をつけて吉野川を渡る。山城町の阿波川口は銅山川の合流地点である。かつては交通の要所だったことだろう。そこから山城谷トンネルで一気に抜けると小歩危に出る。名前からの印象だけで言えば、小歩危よりも大歩危の方が川の岩が大きいイメージがあるし、なにしろ有名である。「大は小を兼ねる」ではないが、「大」とついたほうが良い印象がある。が、実際には大歩危小歩危の渓谷はその中間が最も見ごたえがあるわけで、大歩危駅まで行ってしまうと、すでに風景が大雑把な感じがしてくる。というより、岩がまさに一枚岩となって岩山に張り付いている様子になって、大きな岩が川に転がっているというイメージからは程遠くなってしまう。昨年関口知宏さんは小歩危で下車されたが、できることなら小歩危で下車をしたい。が、特急は大歩危しか停車しない。結局自家用車で来なければならないようである。いつか来ることにしよう。

大歩危を過ぎると犬寄トンネルが開通するまで四国で一番長いトンネルである大歩危トンネル(4179メートル)に入る。昭和43年に完成して、それまで川岸にへばりつくように敷かれていた線路が一転して山の中を走るようになった。地図を見れば、最も川から離れたところで約500メートルほどある。ずいぶん思い切ったことをするものだと思うと同時に、それだけ災害が多かったものと思われる。

土佐岩原で特急南風40Dとすれ違うが、ホームに三脚が並んでいる。今日は高知方面から臨時急行「土佐」の国鉄塗装車がこちらへ向かっている。果たして次の豊永に赤い車体が見えた。

  

(左:土佐北川を過ぎる、右:新改駅のスイッチバック)

土讃線に乗車していると、太平洋側に出るまで、ずっと吉野川に沿っているように、いや、少なくとも、土讃線や国道32号と別れる大杉までは吉野川に沿っているように思われるが、実際には豊永の次、大田口を過ぎて、和田トンネルを抜けると、吉野川の支流である穴内川沿いに出る。大田口から6・8キロ先の大杉では西側の山を越せば吉野川であるが、その分水嶺上に高知自動車道の大豊インターチェンジが設けられている。

大杉を過ぎると、大杉トンネルを抜け、短いトンネルを過ぎて穴内川を渡り、大豊トンネルを抜けると穴内川の鉄橋の上に架かる土佐北川駅を通過する。この大豊町は大杉と豊永からとられたものだということが一目でわかるが、それならば、なぜ高知方面から延びてきた方のトンネルが大豊なのか、と思っていたが、この土佐北川は災害対策で橋上駅舎となったというから、その時にできたトンネルなのであろう。

(繁藤付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >>

さて、繁藤を過ぎると、いよいよ土讃線最大の峠越えとなる。国道32号は、繁藤橋からさらに穴内川支流を遡り、北滝本の標高391・1メートルのところから根曳峠を越えて太平洋側へ出る。そして、東の新改川と西の領石川支流の分水嶺上にある成合という集落を越えて、領石川沿いに南国市へと降りてくる。

それに対して、鉄道の方は実際には高知側から敷設されたものであるが、新改の集落よりもかなり東にある新改駅を過ぎると、すぐに穂岐トンネルで一気に分水嶺を越える。そしてここからがすごい。穂岐トンネル南側が標高320メートル新改川の奥地にある東川の集落を、連続トンネルで大きく迂回しながら180度向きを変えたところで標高230メートル。実に90メートルしか下っていない。いかに、鉄道が標高差に弱いかということがわかる。右手にある東川の集落の山の上に数基の風力発電用と思われる巨大な風車が見える。山頂付近には森林公園があるようなので、その関係だろうか。180度回ったところから、今度は南に90度向きを変えるとスイッチバックの新改駅を通過する。さらに反時計回りに180度回ると、標高150メートルを切る。物部川水系と新改川水系の分水嶺上を再び時計回りに約150度ほど回り、雪ケ峰牧場南のトンネルを抜けると、標高100メートルを切り、まもなく土佐山田駅に到着する。

  

(左:土佐山田付近から見る東川の風車、右:吾桑駅付近にある山にへばりつく石灰の工場群)

先ほどの風車は土佐山田駅を過ぎてもまだ見える。よほど高いところに大きなものを造ったようである。11時30分高知着。ここで後ろ2両を切り離して3連となるが、以前と違ってわずか4分で出発する。あっという間に出発したように思える。

朝倉から伊野までは土佐電鉄と並行し、伊野を過ぎると、仁淀川を越える。土讃線は松山へ山越えをする国道32号に佐川までほぼ並行し、そこから山を越えて須崎で国道56号へと合流する。国道56号沿いに土佐市経由ということは考えられなかったのかと思うが、高知付近の鉄道は、日下〜須崎間が最も早く、大正13年3月30日開業、そのまま伊野、高知へと開業したのが同年11月15日だから、最初から土佐市は無視された格好になっている。多分、当時の事情として、斗賀野の石灰の搬出が目的ということもあったと推測される。面白いのは、西佐川駅開業は同線の開業と同時なのに対して、佐川駅の開業は大正13年10月25日で、西佐川駅の方が先に開業している。

(斗賀野付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >>

このあたりは、石灰の宝庫らしく、斗賀野トンネルを抜けると山肌にへばりつくように工場がある。まるで要塞のようである。宮崎駿氏の映画に出てきそうな雰囲気さえ感じる。土佐市からこようと、佐川町からこようと、結局須崎に出るにはトンネルを掘らなければならなかったのだろうが、それが高知の鉄道の最も歴史があるところだというのだから、当時はよっぽと貨物輸送に重点が置かれたものと思われる。須崎12時20分発。ここで太平洋側に出る。

 

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