2005秋バースデイ切符旅行記(1日目)

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(以下の撮影日は特に説明がなければ旅行日)

旅のプロローグ

今年も自分のバースデイ切符の季節がやってきた。今回は昨年のような台風による線路寸断もなく、おかげさまでまともにいくことができそうだ。しかも、まさにその3日間、高松〜多度津間に「SL急行義経号」、高松〜高知間に国鉄色「急行土佐」が運転される。アンパンマンスタンプラリーが11月からの運用になって、見事にわれわれは避けられたが、まあ、落ち着いて旅行をせよということと思おう。ちなみに、今回の予定は次のとおりである。

10月28日(金)単独
松山719(8MG)913多度津「SL」1213(9DGA)1533宇和島1548(1068DGA)1711松山

10月29日(土)
松山615(6MG)837児島846(3131MG)916高松947(65DY)1056徳島1155(15DY)1305阿波池田1307(44D)1350宇多津1403(13M)1614松山

10月30日(日)
松山719(8MG)913多度津「SL」953(33DGA)1245窪川1322(4843D)1521宇和島1548(1068DGA)1711松山

(凡例)「G」グリーン車、「A」アンパンマン列車、「Y」ゆうゆうアンパンマン、「SL」SL撮影

10月28日(金)松山〜多度津間8M特急しおかぜ8号

今回の出発は金曜日の8M、なんのことはない。いつもの通勤電車である。なんとなく、6時45分という通常の時刻に松山駅へやってきたため、まだ8Mは入線していない。仕方がないので、いつもの8号車20番乗車口で待つ。このあたり我ながらいかにも小心者だと思う。列車が入ってきたと同時に5号車から8号車へと移動する。

  

(左:松山駅での8M特急しおかぜ8号、右:新居浜駅手前での元別子鉄道跡の自転車道)

座席は8号車1番C席。1番ABの特等席は空いているが、2番C席、3番C席といかにも「鉄ちゃん」という若者が座っているため、下手な移動は控える。が、この席は運転席の様子がよく判る。松山〜今治間に関しては、だいたいの運転パターンは覚えているが、その記憶に基づいて運転士の動作を見るとなかなか楽しめる。

8号車1番C席は言うまでもなく、最前列の運転席真後ろである。前方に運転士がおり、なおかつ8000系の運転席が高く、前方は全く開けない。それでいて、なんだか足元が少々狭いような気もする。また、窓も2席で1窓のため、1番は左側の車窓にも圧迫感がある。これなら2番C席のほうが良いと言わざる得ない。まあ、明日、明後日と1番ABの特等席に期待しよう。

(8000系と2000系の1番C席から見た前方の様子はこちらへ) > かずまるのBlogへ移動

今回のバースデイ切符使用日程は、偶然にも高松〜多度津間に「SL急行義経号」が走るときと重なった。坊っちゃん列車にすでに270回以上乗車しているが、軽便鉄道でないJRの蒸気機関車が走る姿もまたよいだろうと思う。

10月28日(金)多度津〜宇多津間

その多度津駅は、ものすごい混雑であった。時刻表上は8Mの多度津到着が9時13分、「SL急行義経号」の多度津到着が9時14分であるのだが、すでに会場は盛り上がっている。3、4番ホームで式典が行われており、そこへ行くのも大変な状態である。

(多度津駅での「SL急行義経号」の様子はこちらへ) > 「SL急行義経号」へ移動

今日は金曜日であることから、幼児とその母親という親子連れが多い。時間があるので多度津駅をまたぐ歩道橋から眺めたり、SLのいる車庫へ行ったりしながら時間をつぶす。式典後に回送されるまでの数分間、機関車の前面に子供を立たせて撮影している親子を多く見かける。明後日の同時刻にここへかずまるとやってくる予定であるが、可能ならばやってみようか。青年の年賀状になるかもしれない。

その後の予定は、「SL急行義経2号」の多度津発10分前の10時32分発134Mで讃岐塩屋へ移動し、「SL急行義経2号」撮影後、136M〜12Mと乗り継いで児島から9Dに乗ろうと思う。9D特急券は児島からのものを持っている。

  

(左:多度津駅での喧騒、右:讃岐塩屋駅にはいる「SL急行義経2号」【拡大可】)

134Mは3両編成の6000系の最後尾に7000系7100型を連結するという4連で定刻に多度津を出発する。多度津駅は10分後に「SL急行義経2号」が出発することから、再び戦場と化しているが、この134Mはみごとにがらがらである。讃岐塩屋までの1駅間、踏切という踏切は全て「JR」の腕章を付けた職員が待機しているが、それでも讃岐塩屋到着直前にある金倉川河川管理道までは手が回らないらしく、線路脇には三脚がずらりと並んでいる。

讃岐塩屋駅は複線の単純な対向式地平駅である。駅西側をオーバークロスする道路の西側に歩道があるが、この歩道がこの駅の跨線橋を兼ねている。あたりは西側に大きな化学工場があるが、宅地化が進んでいる。この駅もずらりと三脚が並んでおり、JR職員も2名がそれぞれのホームに立っている。その間にも、幼児を連れた母親が次々と自家用車で乗りつけてくる。

「SL急行義経2号」が通り過ぎると、次々と人が去っていき、代わりにお年寄りの姿が増える。すぐに136Mがやってくる。この電車はお年寄りの通院電車かと思うほど、お年寄りが多いが、明らかに「SL急行義経2号」を追う者も多く、かなり混んでいた。10時57分宇多津着。私はここで下車して12Mを待つ。しばらくすると、7Mがやってくる。これは先ほど乗ってきた8Mの折り返しである。明日の8Mはリニューアル車のはずである。明日だけが8Mではなく6M乗車となるのが少々悔しい。

7Mを見送った後に次の12Mのグリーン車指定席券を買う。時間があるので、宇多津駅をぐるりと一回りしてみる。宇多津駅は元々は南の青ノ山の北山麓に位置する、目立たない単なる行き違い駅であった。それが瀬戸大橋開業の線路付け替えで現在の場所に移転した。話は変わるが、今治駅が高架となったのが1989年、高架駅となった時期が近いせいか、駅の構造もなんとなく似ている。トイレの位置やその構造、8両編成の列車が入ったときに、その端までホームに屋根がないところまでよく似ている。

  

(左:宇多津駅での7Mと1011M、右:宇多津駅に到着する12M)

10月28日(金)児島〜宇和島間9D特急しおかぜ9号

などと思っている間に12Mがやってくる。列車はゆっくりと瀬戸大橋を渡って、11時35分に児島へ着く。まもなく11時45分発9Dがやってくる。1号車G車は「どきんちゃん」、1号車C席で終点宇和島まで3時間48分の乗車となる。車内には屈強な男性の集団が乗っていた。

(この人たちの正体を知りたい場合はこちらへ) > かずまるのBlogへ移動

さて、今回は線路の敷かれた経緯を私なりに推測してみたいと思う。予讃線の迂回線路といえば、伊予小松〜今治〜松山間の高縄半島迂回が有名であるが、そこまで大きくはないが、香川県の多度津〜観音寺間もかなりジグザグに線路が敷かれている。しかも、不思議なのが、同区間は大正2年12月20日に一気に開通していることである。単に最短距離で結ぶならば、多度津から善通寺市吉原町の丘陵地を抜けて高瀬へ出たほうがはるかに早い。当時の建設技術が未熟だったとはいえ、あの程度の丘陵地を超えることは可能だったろうし、海岸寺から詫間までの海岸上に線路を敷くよりは楽だったのではないか、とも考える。

(詫間付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >>

私が勝手に解釈するところでは、単に詫間へ線路を敷く必要があったのではないかと考える。詫間港の利用か、誘致があったのかは知らないが、現在では詫間には結構大きな工場も立ち並んでいて、乗降客も朝夕に特急が全て停車することから、位置づけも旧北条市並の扱いになっている。あるいはかつては地域の中心地だったのだろうか。

次の朝夕特急停車駅高瀬であるが、「山陽・四国670駅(小学館、編集委員、宮脇俊三氏、原田勝正氏)」によると、「この駅が開業してから。あたりに集落が形成されたという。」とある。詫間〜高瀬間にあるみの駅(旧高瀬大坊)の開業が昭和27年1月27日なのだから、詫間〜観音寺間を東へ迂回させて、わざわざ当時周辺にはほとんどなにもなかった高瀬駅をつくったことになる。まっすぐに行くとすれば、山頂を削り取られている汐木山の麓から同じく爺神山の西側麓を経由すれば、そのまま比地大へと抜けることができる。わざわざ迂回した理由は何だろうか。詫間付近で高瀬川河口が渡れない理由があったのか、直進する地盤の問題か、反対運動があったのか。

  

(左:12M宇多津駅側から見た瀬戸大橋、右:児島駅に到着する9D)

比地大駅の次には本山駅がある。神戸市灘区にある山陽本線摂津本山駅には「摂津」がある。摂津本山は昭和10年12月25日に開業しているから、この本山駅は山陽本線の摂津本山駅より古いことになる。まあ、西隣の住吉駅は明治7年6月1日開業だから、単に駅がなかったということではある。ただ、気になるのが、駅の所在地が三豊郡豊中町岡本であるということである。山陽本線摂津本山駅に一番近い阪急電鉄の駅が岡本である。これは単に偶然なのだろうか。

本山〜観音寺間の迂回ルートの理由はある程度推測できる。七宝山の南峯に阻まれて直進できないことと、その南側にある財田川、その南側にある谷川をまっすぐに渡ろうとしたためであろう。そして、観音寺市街地の南側へ海に向かって駅が設けられている。これも、当時の全国的な線路の引き方を見れば納得できる。そして、観音寺開業から2年半後の大正5年4月1日に愛媛県川之江駅まで開業したときには、豊浜方面へ向けて大きく左カーブをさせたはずである。

観音寺を過ぎれば、あとはだいたい線路を敷く必然性に関しての意外性に乏しくなる。伊予三島駅までの延伸が大正6年9月16日、伊予土居までの延伸が大正8年9月1日、伊予西条までの延伸が大正10年6月21日、壬生川までの延伸が大正12年5月1日、伊予三芳までの延伸が同年10月1日、伊予桜井までの延伸が同年12月21日、今治までの延伸が大正13年2月11日となっている。伊予小松〜今治〜松山間の高縄半島迂回に関しては、昨今いろいろと批判があるが、壬生川、伊予桜井、今治までこまめに開業している背景には、当時の鉄道が人間よりも貨物輸送に重点が置かれ、また、この地方、特に伊予三芳や伊予桜井地方の産業が発展していたことを示し、旧街道とはいえ、建設にかかる費用とを考えると伊予小松〜松山間を桜三里越えをする必然性がなかったのではないかと考える。ちなみに、桜井は「月賦制度」発祥の地とされていることから、当時は桜井漆器を中心にかなり産業が発展していたと思われる。現在の桜井地方を見ていると、合併の弊害もこのようなところにある。

今治まで開業した予讃線(当時の讃予線)はさらに、こまめに開業しながら松山までいたる。大西までの延伸が大正13年12月1日、菊間までの延伸が大正14年6月21日、伊予北条までの延伸が大正15年3月28日、そして松山までの延伸が昭和2年4月3日である。ダイヤ改正も大変であったろう。この中で、さらに気がつくのが、今治市波止浜と松山市三津浜という海運業の発展しているところである。いずれも、わざわざ線路を迂回させて駅をつくったところが共通している。三津浜に至っては、すでに明治20年台に伊予鉄道が発足し、さらに、昭和初期となれば松山電気鉄道が三津浜まで開業させた時期である。そのようなところに、わざわざ殴りこみをかけるがごとく、船ケ谷町と西衣山の地峡部に線路を敷いたということは、当時三津浜がいかに発展していたかが伺える。

伊予亀岡で20Mを退避させる。20Mは朝私が乗車した車両である。三度出会った訳だが、この後は1032Mとなり、明日は1003Mとなって、8Mならば今治駅で、6Mならば新居浜駅ですれ違うことになる。

  

(左:9Dの車窓から、伊予亀岡で20Mとすれ違う、右:9Dの車窓からの松山駅)

9Dは定刻14時05分に松山に到着。時は松山駅のアンパンマン列車タイムである。ここで9Dは後部3両を切り離して、4両で宇和島まで向かう。私もこのまま宇和島まで乗車する。

就職直後は休日に実家の今治へ帰ったときには、今治〜八幡浜間を国鉄を利用していたから、松山通過は日常茶飯事であったが、今となっては久しぶりの経験である。が、実際のところは、松山以東と松山以西のダイヤは別物扱いとなっている。実際、特急なども乗換時間が年々増え、少々遅れても対応できます状態となっている。この9Dも松山で13分停車するが、車掌は「列車切り離し作業のため13分停車します。」といっても、宇多津の切り離し作業に要する時間設定を見ても、実際のところはそういう理由ではないだろう。

さて、松山から4両編成になった9Dは快調に宇和島をめざす。松山から伊予市の間は、伊予鉄道が旧国道56号の街道沿いを走っているのに対して、農村地帯を堂々と突っ切っている。ここ松山周辺に関しては、伊予鉄道の方が歴史が古く、国鉄開通当時すでに、現在の郡中線は南予鉄道として開通していたわけであるから、国鉄のほうが遠慮したのかもしれない。ただ、松山駅の名称に関しては、強引に伊予鉄道からとりあげたという。以来伊予鉄道は松山市駅と名乗っている。ちなみに、伊予市延伸は昭和5年2月27日であった。

ここから、厳密に言えば次の向井原から先は昭和61年3月3日に開通した、通称内山新線へと入る。この日私は内子へ出張をしており、開通状況を見に、昼食を兼ねて中山駅に行ったら、テレビに映ってしまって困ったことがある。

(犬寄トンネル付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >>

この内山新線は厳密には、向井原〜内子間と新谷〜伊予大洲間は予讃線、残る内子〜新谷間は内子線というが、簡略のため一応内山新線と掲載する。内山新線のすごいところは、犬寄峠を伊予市大平の森川水系にある伊予大平駅から同市中山の肱川水系中山川の伊予中山駅までトンネルひとつで通したことである。私は内山新線開業半年ほど前にこのあたりを見に行ったことがあるが、てっきり、国道56号犬寄トンネルの南側、柆野あたりで一度トンネルを切るものと、散々探し回ったものである。一気にトンネルで抜けると聞いてびっくりした記憶がある。ちなみに、伊予中山〜伊予大洲間はミニ新幹線とも呼べる内子新線は、情け容赦なく鉄橋とトンネルで抜けていく。が、基本的には肱川水系に沿って走っているのだが、実際には内子〜喜多山間で分水嶺を越えている。同じ肱川水系の中山川が内子を過ぎると一度大きく南へ迂回するため、矢落川へと出るわけだが、実はこの分水嶺は内子線時代から越えていた。横を国道56号が併走している。

伊予大洲まで大正7年2月14日に伊予長浜廻りで開通した現予讃線は、ここから八幡浜まで開通するのに21年もかかっている。八幡浜駅開業が昭和14年2月6日、すでに日本は戦争一色の時代であった。ここから南は逆に宇和島側から伸びてきて、卯之町駅開業が太平洋戦争直前の昭和16年7月2日、八幡浜までつながったのが、実に終戦直前の昭和20年6月20日だった。そういうこともあって、八幡浜以南は軽便鉄道並みの線路の敷き方となっていて、スピードも落ち、急勾配に落ち葉の油がかかって列車が空転したりもする。ただ、開業の時期を見る限り、伊予大洲〜卯之町間の線路敷設に関しては、迂回を要する八幡浜を無視する気はなかったように思える。もっとも、そのおかげで、現在はドル箱路線といわれる松山以南も、高速道路が宇和島まで開通すれば、この八幡浜迂回が大きなネックとなるであろう。一時大幅減便した松山〜宇和島間の宇和島自動車が必死に粘っていたかいがあったというものだろうか。

(法華津トンネル付近の地図はこちらへ) > 国土地理院の地図へ >>

  

(左:9Dの宇和島駅到着、右:宇和島駅の風景)

さて、旅も最後になって、卯之町から立間までの線路の敷き方である。この区間は国道56号を含め、実にみごとな敷設をしているといわざる得ない。戦時中の突貫工事で開通させたとはいえ、この区間の敷設には苦労があったと思う。実際には宇和島側から敷設したものであるのだが、自然に逆らわず、それでいて短いトンネルで我慢して、なるべく直線に結んで、そして最後に法華津トンネルで抜けている。惜しむのは路盤が弱いということだろうが、現在の2000系気動車はこの程度の坂は軽快に走り抜ける。技術開発の方々に敬意を表したいと思う。

そうこうするうちに、15時33分に宇和島到着。長かったようで短かった3時間48分であった。宇和島では、11月3日にNHK松山放送局製作番組の舞台に沿ったウォーキングをするとかで、そのモニュメントとして牛鬼が駅に飾られていた。私は半年前の関口知宏さんを思い出した。彼は同日最終目的地である根室に到着する。

10月28日(金)宇和島〜松山間1068D特急宇和海18号

大変申し訳ないが、帰りの1068Dはほとんど夢の中であった。幸いグリーン車には毛布が2枚用意されているので、それを掛けて寝ていた。気がつけば、すでに伊予市を過ぎていた。松山到着は17時11分。明日は6M乗車のために午前6時過ぎには、かずまると松山駅にやってくる。そして、明後日は同じくかずまるとこの列車に乗車しているはずである。そのとき、かずまるは何というだろうか。(2005.11.04)

 

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