愛媛の「鉄」の紹介 > かずまる特攻隊が行く > かずまる特攻隊が行く | |
http://www4.ocn.ne.jp/~iyokan/furuichizu10.htm (左側は現在の城北方面の地図(拡大してください)、右側は当HPのリンク先でもある「しおかぜのページ」さんに掲載された明治42年3月の地図へリンクします。なお、撮影はいずれも2002.05.12) 前回5月12日に探索した旧道後鉄道跡のうち、はっきりしなかった樋又通りについて、上記のとおり「しおかぜのページ」さんがヒントを与えてくれた。 木屋町から現在よりも緩やかなカーブで、軌道が現在の樋又通りをリリースしていることは明らかである。問題はどのあたりから現在の樋又通りと別れて南下を始めたかである。 ここから強引な説を述べる。旧地図にある現在のロープウェイ街を北東に伸びる道路があるが、その道路が北へ向きを変えるあたり、つまり西一万バス停の真北で、先の2地点の道路南端からその南にある川の北端までの距離を新旧の地図で図ってみる。なお、旧地図は私のプリンターで出力したもの、新地図は住宅地図で測っている。旧地図では1・1センチ、0・85センチ、新地図では3・9センチ、3・7センチとなる。東へ向かう場合の道路と川の両者の接近率は旧地図による鉄道が73%、新地図による樋又通りが94%である。 つまり、少なくともこの旧地図の路線図が正しければ、南海放送会館付近より東側では、樋又通りは護国神社の西側100メートル付近では、現在の樋又通りよりも南側を走っていたことになる。 実は前回の探索時では、樋又通りに入ってから、道路や通路ごとに南下して様子を見て、2枚ほど撮影した。線路跡のようにも見えるが、確信がもてなかったので、未公開としていたが今回確信が持てたことにより、公開することにする。それが、下の2枚である。
まず、場所を説明する。左の写真は西側を向いており、、写真右側が樋又通りと護国神社前交差点信号である。上の地図を東方向へ最大2回スクロールしていただくと場所が出てくる。四国郵政研修所と愛媛大事務局の南側、村上ビルの30メートルほど北側を西側に向けて撮影している。 今回、「しおかぜのページ」さんの協力により、ひょっとして道後鉄道木屋町〜道後温泉間の跡地が明らかになったかもしれない。まあ、このように雑然と述べただけでは、どこがどこか判らないであろうから、今後公開できる地図を用意して、撮影場所を明らかにしてみたいなと思うのである。(2002.06.08) |
6月1日(土)は11週間連続のかずまる特攻隊となった。午前10時15分に伊予鉄古町駅に出没。まもなく坊っちゃん列車がやってくる。今日はLRTの2101は車両基地で点検している。その前で坊っちゃん列車が転換作業をし、城北線を2102が通過する。で、今日は坊っちゃん列車のN運転手が城北線の運転手をしており、古町駅で待機していた。ちょうど昼食時らしく、古町駅のコンビニで弁当とカップラーメンの大盛りを買っていった。さすがである。ちなみに、「ひめぎん」の坊っちゃん列車のポスターはなぜか伊予銀本店前からの写真であるが、その写真に彼が結構アップで映っている。後ろの車掌さん2人と比べても格段の貫禄がある。
さて、今日は古町駅に取材の方が来られていた。伊予鉄道の方の会話を聞いていると、どうやら富山県高岡市を拠点とする「万葉線」の関係者のようである。加越能鉄道から今年4月に生まれ変わった鉄道で、当HPにも交通情報でよく出てくる鉄道である。地方鉄道の中で、結構頑張っている伊予鉄道(現在は判らないが、少なくとも10年前には、ぎりぎりながらも黒字経営だった地方鉄道としては広島電鉄と並び希少価値であった。)は彼の目にどのように映ったのであろうか。ただ、彼はLRTには興味を示していたが、坊っちゃん列車は眼中にないような印象を受けた。 坊っちゃん列車を見送った後、JR松山駅へ行くが、ここでトラブル発生。10時41分発の城北線は松山市駅からやってくる郊外電車1両の回送電車で出発が遅れた後、なぜか早着した横河原行きの電車が古町駅に着くや、城北線をふさいだままで出発する。結局、4分遅れで出発する。 さて、松山駅では、昨日のいしづち30号の4号車にクリームパンダ号が入っていたと言う情報をきいていたが、その後いしづち1号→宇和海8号と運用されることになる。右上の写真のとおり、アンパンマン列車である宇和海7号を横目に2番線にクリームパンダ号を先頭とした宇和海8号が入線する。
アンパンマン列車を見た後は、とりあえず大街道へ行こうとしたものの、なぜか市役所前で下車。その後はついに、1時間40分間堀之内の東堀端県庁前交差点から南堀端間を行ったりきたりすることになった。直射日光の下ではかなり暑い日中も、まだ6月にはいったばかりの木陰はまだまだ涼しく感じられる。その間坊っちゃん列車は4度通り過ぎた。 さて、右上は八股榎お袖狸の赤い鳥居である。日常よく見るのであるが、古い狸の伝説がある。よく考えてみれば四国には結構狸伝説があるが、松山にもあるようである。そう言えば、昔「平成狸伝説ポンポコ」の映画の中で四国の狸がよく出てきた。狸伝説を追ってみるのも楽しいかもしれない。(2002.06.01、2002.06.02一部加筆) |
(左は道後今市付近、右は木屋町〜高砂町電停付近の地図です。参考にしてください。なお、写真は全て2002.05.12撮影) 当初の予想に反して暑い一日となった。かずまる特攻隊はついに旧道後鉄道跡である道後温泉〜現伊予鉄城北線木屋町間の旧線探索を観光、いや敢行したのであった。その結果はいかに。なお、本当は木屋町付近を先に探索し、午後から道後温泉〜木屋町と歩いたのであるが、道後温泉→木屋町の流れで掲載したほうが都合が良いので、そのようにさせていただくのでご了承願います。 道後温泉12時43分発の坊っちゃん列車を見送ったかずまる特攻隊は、一路西の方向へと歩き始める。県民文化会館からの県道20号は、バイパスが開通して交通量が増えている。
前回通った身障者福祉センターの北側のクランクあたりから今度は北西方向へ向かう。すると、道後今市の地図の右側からずっと左側へ向かう。道路はわずかに北側に弓なりに弧を描く。郵政官舎の南側、この地図の中心からちょっと西側に三叉路があるが、これが上記左の写真。そこからサンクスの北側に向かう道路はいかにも旧線跡のようだ。
さて、実際のかずまる特攻隊は、この後かずまるが熟睡モードになったので、終わりを告げたが、これから先は、実は午前中の発見である。地図は右側の方をクリックしていただくたい。
このブロック塀の続きが、右上の写真の右手奥に見える塀である。見事に一直線に続いている。同写真の左側に踏み切りが見えるが、これが地図の婦人会館北西にある踏切である。
南海放送〜清水小〜勝山中で途切れた線路跡は、これらの大型建物をはさんで、現在もその名残を留めていたのである。 |
5月4日(土)のかずまる特攻隊は、まず正午前に道後温泉へ出没した。あいにく、午後から雨が降ると言う予想の天気の中、道後温泉駅前のからくり時計には、今まで見たことも無いほどの人だかりで、しかも歓声があがる。 (以下の写真は一番右下以外2002.05.04撮影)
まずは、いつもの歩行町の坊っちゃん列車を見ながら、上一万を目指す。これが左上の写真。この道路をかつで走っていたであろう列車は、実は上一万から現在の線路沿いに道後温泉を目指していた。 さて、ここで地図をよーく見ていただきたい。この道路の途切れた三叉路と地図北東の身障者福祉センターを結んでみると、ちょうどわかば寮の北西に、斜めに建っている家があるのに気づくだろうか。これが右上の写真である。前後の家並みに比べて、あまりにも不自然に建っている。もしかすると、この家は線路跡の上に建築された家ではないのであろうか。
続いて、先ほどの家から、身障者福祉センターへ向かうが、この身障者福祉センターの北端に道路がクランクになっている箇所がある。それが左上の写真である。向かって左側が南だが、よく見ると、前方の家の南側がゆるくカーブしているのが見える。そして、この道路を東に向かうと、やはり右上の写真のように、さらにゆるくカーブしているのがわかる。そして、そのまま東へ向かうと、左下の道後温泉駅西側のヤードに行き着くのである。
我々かずまる特攻隊は、廃線跡をスクープしたわけであるが、まあ、あくまでこれは推測に過ぎない。次は清水町方面への廃線跡でも探してみようかとも思ったが、これは大変そうなので何も考えないことにしよう。いずれにしても、道後温泉駅西側ヤードに我々が到着した直後に前方から坊っちゃん列車がやってきたのであった。それを撮影するのを忘れてしまった。うーむ、坊っちゃん列車が走ってくると、撮影なんかするのはもったいない、肉眼で見なければ、という衝動にかられてしまうのである。多分私はカメラマンには向いていないのであろう。坊っちゃん列車を撮影しなくて、何が坊っちゃん列車のある風景か?となってしまうので、最後に先週撮影した坊っちゃん列車を掲載して、この大(?)スクープを終了する。(2002.05.04) |
4月13日(土)JR松山駅の改札口横に次のような広告があった。 JR松山駅は5月26日に、「坊っちゃん列車探検」のイベントを実施する。 詳細は近日中にJR松山駅でチラシを配るとのことで、松山駅で尋ねても誰も詳細を答えられない。なんなんだ、これは!! イベントには実に興味があるが、それにしても徒歩区間が多いこと!かずまるの体重15キロの負荷がかかることは目に見えている。しかも土曜日ならともかく、なんで学校週休二日制が開始したのに、日曜日なの?と、多少(口には出さないが)JRSに文句をいいながら、ともかく一度予行演習をしてみることにした。 時は4月20日、おりしも天気は曇後雨というありがたい予報。だが、かずまる父は早朝から天気予報のHPを確認し、降り始めの予想が多少遅れることを確信していた。
と言うわけで、10時31分に坊っちゃん列車を見送って、5番線へ急ぐ。同34分発の郊外電車で三津駅へ。 三津の渡し・・・三津〜港山間の湾を結ぶ約80メートルで約2分の航路。約500年の歴史を持ち、室町時代までさかのぼる。伊予守河野道春が港山城主だったころ、食料の輸送に利用したのが始まりとされる。現在航路は市道になっていることから運賃は無料。船は13人乗りで、船がたとえ対岸にいても、待っていればやってきてくれる。ただし、港山側の上陸は結構スリルがある。 港山から伊予鉄港山駅北側への道は歴史を感じさせる。
(画面左)小林一茶と洗心庵・・・寛政7年(1795年)、小林一茶(当時33歳)が松山にやってきたときに、洗心庵で俳友と句会を催したという。現在、洗心庵は明治5年の大政官布告により廃寺となっている。 (画面右)港山城跡・・・1334年(〜38年頃)、湯築城を築いた河野通盛が海辺守護のために築いたと言われている。河野氏は、忽那氏に城の守りを任せ、16世紀後半に起きた大友氏や毛利氏らの海上からの侵略軍の撃退に大きな役割をはたした。1585年、小早川隆景の率いる伊予平定軍の攻撃を受けて落城し、廃城となった。 さて、前半の終点は梅津寺パーク。3キロ以上は歩いたと思うが、思ったより早く、11時40分頃には到着した。伊予鉄梅津寺駅に残るハンカチはいつしか色あせて見える。梅津寺パークの入場券はかずまるも私も200円。早速坊っちゃん列車の前で昼食にする。
こうして、坊っちゃん列車を見ていると、ふと、伊予鉄ホームページにある「伊予鉄道博物館」を思い出す。私は、当初本当にあるのかと思ったのだが、これほどの歴史を持つ鉄道であるのだから、本当に博物館を建設できないか、と思う。しかし、我々かずまる特攻隊は、結局梅津寺パークではここしか見なかったのであった。一体何をしにやってきたのか? 梅津寺発12時前の電車で松山市駅へ。実はここで雨が降り始めていたら、かずまるが帰りたいと言えば、衣山駅で下車する予定であったが、結局かずまる特攻隊は続行。まずは、JR松山駅へ行くが、特急は出発した直後だし、坊っちゃん列車探検隊も全く進捗がないので、そのまま松山市駅へ。ここで、13時11分発の坊っちゃん列車を見送って、さて、ダブルヘッダー第2試合・・・そういえば、今日、明日と坊ちゃんスタジアムでプロ野球が開催される。いざ、というわけだが、雨のほうも心配なので、大街道までは市内電車で行く。 そのまん前に喜与町バス停があるため、はて?と思ったが、宮田ビルのある所は間違いなく歩行町。そこといえば、やはり米山工業製の坊っちゃん列車しかない。しかも、現在も蒸気で走ることができるというのがすごい。 結論・・・不可能ではないが、15キロの負荷は大変きつい。ずっとかずまるを肩車することは、他の参加者への影響を考慮して参加しない方針。(2002.04.20、2002.05.07加筆) |